生きた証がないなどと苦しむ必要はない。私たちのすべての経験は記録され、後世に役立てられていく

「アカシック・レコード」という概念がある。これは今まで世界で起きたことすべての記録を指すものなのだが、これは確かに存在する。日本で「閻魔帳」と言われているようなものもだいたいこれと同じような概念だと言える。ただ、それが私たちが日常的に想像するような「物質」というかたちで存在するかどうかは別にしても、私たちのすべての経験は、記録され、共有されているのである。

私たちにはひとりひとり、それぞれ「縁のある存在」が一緒にいる。これは肉体人同士を考えても言えることだし、霊的にも、守護霊や近親霊、共通の喜びを感じられる霊などが、それぞれのひとの周りに集っている。これは見かたによっては、

監視されている

常に見られていて落ち着かない

というように捉えることもできる。しかし、私たちが見られているのはなにもこちらに心理的圧迫を与えるためとか、粗探しをするためとかではなく、その経験を共有し、ともに学び、後世に活かすためである。実際に私たちは、霊存在として生きている期間と、肉体を持って生きている期間とを繰り返しながら、それぞれまた違った角度から喜びを深め、学んでいく。だから、現時点では霊存在である彼らも、いずれはまた肉体人として生きるときが必ず来る。そのとき、あなたとともに経験したことは、かけがえのないものとして活かされることになるのである。そうやって、自分だけでなくお互いに学び合ってともに成長していくのだ。

そうは言われてもこの感覚は慣れるまではやはり圧迫に感じ、苦しくなるかもしれない。だがそれはそういう仕組みになっているので、誰しも逃れられない。それに、考えようによってはこれは大きな喜びでもある。なぜならこの仕組みが理解できると、私たちの悩みの種がひとつ解消されるからである。

私には、生きた証がなにもないのです

と苦しむひとがしばしばいる。たとえば仕事上でとくに「功績」を残せず、家族関係も薄かったり、こどもがいなかったりすると、ときにこのような想いに苛まれそうになるひとも多い。しかし、自分がひとりではなく、多くの存在に見守られていて、自分の経験はこれからもたくさんの方々に役立てられるのだということを理解していれば、このような虚無感や無力感はかなり和らげられると思う。「成功」というのはその時代背景や集団の価値観に大きく左右されるものだし、肉体的な遺伝子を遺せなくても、あなたの意志が潰えるわけではないし、死後になにか困ることもない。言ってみればそれもすべてひっくるめて、ふたつとないあなただけの人生を、あなたは生きているのである。その生きた証は、必ずしもこの世界に「痕跡」としては遺らなくても、大切なものとして多くの存在が見てくれているのである。

私自身も日常のなかで、自覚的に多くの霊存在と関わって生きている。そうするとなかには、

生きていてなにが楽しいんだ?

お前なんか生きてる価値ないんじゃねぇ?

などとちょっかいを出してくる霊もたくさんいる。そういった場合私は、

まぁ、よかったら最期まで見ていてよ

と言うようにしている。私も今現在まさに生きている段階で、自分自身の人生を総括することはできない。これからどんなことが待ち受けていて、なにが自分にできるのかはわからない。だからこそ、誰かが私の人生に興味があるなら見てくれればいいし、ないなら見なくてもいい。なにより、私自身がこの肉体を通して、直にこの世界に関わり、この世界を見ている「霊」なのである。そういった原点に立ち返ると、また違った視点から人生を味わうこともできる。そしてこの生での経験は、必ず次の生にもなんらかのかたちで活かせるものになるだろう。

だからあなたも、世間的な評価に縛られず、できるだけやりたいことをやってみてほしい。だが無理することもない。今回できなかったことは、また次の機会にやってみればいい。それにこうやって私とあなたが出会えているのもひとつの縁である。もしかしたら死後にでも来世にでも、また違ったかたちで再会することができるかもしれない。そのときは、お互いの経験を思い切り語り合ってみよう。そんなことを想像してみるのも、ひとつの大きな楽しみなのである。