霊はいいよなぁ。からだが痛むこともないし、眠たくなることもないし、トイレにも行かなくていいんだから
肉体人はしばしばこのように霊を羨む。しかし一方で、霊のほうにも、
からだを持っている奴らはいいなぁ。飯は美味いし、音楽は楽しめるし、思い切り世界を楽しめるんだから
などと言うひとたちは大勢いる。これは、とても興味深い事実である。
「霊主体従」という言葉がある。これはいわゆる「スピリチュアル」の世界ではよく耳にする言葉なのだが、とても誤解を受けやすいものでもある。私たちは「霊」(精神・魂)と「体」(肉体)のはたらきによってこの世界に存在できている。

このどちらが欠けてもいけない。確かに、肉体自体はときが来れば滅びるのに対し、魂はずっと存在し続ける。だがだからと言って、からだを大事にしなくてもいいというわけではない。生まれ変わりがあるからといって、かけがえのないそれぞれの生を大切に生きないのもおかしい。ここを勘違いして、
ひとの本質は霊である。だから肉体の執着は棄てなさい
というような言葉を安易に捉えるのは問題だ。私たちは精神(意志)によってからだを動かしているのも事実だが、肉体の影響で精神が変化するのもまた事実なのである。

それに私たちは、肉体があることで日々多くの喜びを与えられてもいる。そのことに気付いたからこそ、霊たちは肉体を羨むのだが、あなたもせっかく生きているのに、失ってからその価値に気付くのではもったいない。からだは私たちが生きるうえで欠かせないものであり、どれほど大切にしてもし足りないくらいのものなのである。
おい、お前のからだをよこせ!
私は今まで何度この言葉を言われてきたか数え切れない。その度に私が、
なんのために?
と訊くと、たいてい
美味いものを食べたい
爆音でライブを聴きたい
誰かと触れ合いたい
などと言ってくる。
私は最初、これが理解できなかった。そんなことは、なにもからだを介さなくても、彼らのいる想念界でも実現できるはずだからだ。しかし、彼らに言わせると、たとえば肉体を介してなにかを食べるのと、霊体でなにかを食べるのとでは、その「深み」が違うということだった。これは、あらゆる感覚に言えることで、やはり肉体を持っていたときのほうが、より「鮮やかな感覚」を得られるというのである。
言われてみれば、私も確かにそうかもしれないと思った。霊には「義務」がない。食べるのも眠るのも自由だが、それは肉体を持っていたときのように、
「生きるのに必要だから」
ではなく、
「やりたいから」(愉しいから)
やるのである。言ってみれば「戯れ」のようなものだ。だが私たちは、空腹のほうが食事が美味しく、哀しいときのほうが音楽が胸に沁みることを知っている。これは、肉体を持つ大変さでもあるのだが、それがかえって喜びを生み出してもいるのである。ただそのことに、からだを失ってから気付くひとも多いのである。
だが、私は基本的にそのような霊に対しては、
生まれ変わりなよ
と言うようにしている。生まれ変わって自らのからだを持てば、自分の選択の自由のなかで、好きなことをして生きることができる。そこには葛藤や苦しみもあるかもしれないが、それを避けて喜びだけを得ようとするのは筋違いである。それに、私も限りある時間のなかで生きているので、それを他者に貸し続けていては身が持たない。そして、そのような肉体の制限のなかで生きるからこそ、喜びも一段と深まるのである。
ただ、なかには生きているひとに伝えたいことがあったり、聴いてほしい話があったりするために私のからだを遣おうとしてくる霊もいる。だが、たとえば私が他者に対して、
あなたのお爺さんの言葉を伝えます
などと言ってみたところで、相手と相当の信頼関係がない限り、疑念に晒されるだけの結果に終わるだろう。だから私はそのことを相手に伝えるとともに、想念というかたちで大切なひとを励まし、見守ることができることも伝える。そして、一般的な話であれば私が聴き取る。これだけでも、少しは心が軽くなってもらえることも多い。これはなにより、霊媒としての私の役割でもある。
このことから、私が強く感じることは、してみたいことがあれば、生きているうちにやることの大切さである。伝えたいことは伝える。一緒にいたいひとと一緒にいる。そして、からだを大切にする。このようなことはともすると幼稚に感じられるほど基本的なことかもしれないが、それができるだけでも私たちの喜びは確実に大きくなるのである。私たちは自分の持っていないものを羨むことに気を取られ、もう持っているものの価値を低く見積もってしまいがちだ。しかし、かつて大富豪だった霊が、喉から手が出るほど欲しがっているものを、あなたはいつでも持っているのである。なかには
私たちが高次の存在になれば、肉体から解き放たれ、「ライトボディ化」する
などと言っているひともいるが、それが実現したら本当にしあわせなのか、よく考えてみてほしい。むしろからだの大切さを理解したら、心はより晴れやかになる。そのときあなたの可能性は、あなたの予想を超えて、拡がっていくのである。

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こんにちは。
いつも興味深く拝見させて頂いております。
霊界にいる霊にもそれぞれ個性があると思いますが、中には「もう二度と肉体を持って生まれ変わりたくない。ずっとこのまま霊体でいたい」と考える者はいるのでしょうか?
もしそういう者がいた場合、二度と生まれ変わる事はないのですか?
kazukiさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ここに記録されているコメントのなかにも、たとえば
というようなものがありますが、実際にそのように思い続ける霊というのは、確かにいます。
そして生まれ変わりというのは、
「自分が生まれたいと思ったからこそ生まれる」
という大原則があるので、自分の意に反して生まれさせられるということはありません。
ですからそうなると、本当に2度と生まれ変わらないという可能性もあるにはあるのですが、実際には私たちは
「永遠の存在」
ですので、その永い時間のなかで気が変わったときには、やはりその意志によって、自ら生まれ変わってくることになります。
ですから、
誰にも強制されるものではない一方で、だからこそ「2度と生まれ変わらない」ということも、誰にも(本人にさえも)言い切れない
というわけなのですが、私自身はといえば今生を最期まで生き抜いて、地球を今よりも生きやすい環境にできたら、またそう遠くないうちに生まれ変わってくると思っていて、実のところそれを、今から楽しみにもしています。
ご回答ありがとうございます。
「自殺」に関するページが特に興味深かったのですが、生まれ変わっても色々と失敗して自殺してしまうリスクを恐れて霊体のままでいるという事もありそうですね。
そういえば霊になっても性格は変わらないんですよね?
物事に関して慎重かつ臆病、物欲が全くないような人だと霊になっても性格は変わらず、生まれ変わりを希望しない人は多いんじゃないかと思いました。
そうですね、私たちは別に「成功」するために生まれ変わるというわけではないですし、むしろ失敗からこそより多くを(様々な感情の揺れも含めて)学べるというのも事実なので、その意味で失敗すること自体はそれほど恐れる必要はないと思っているのですが、それでも自殺だけは他とは意味がまったく違いますので、その可能性を恐れるというのなら、それはそれでしかたがないなぁと思うところではあります。
ただこれは実のところ、
「霊が肉体人(肉体界)を過剰に侮蔑、あるいは恐れている結果」
であることも多く、こうした事情は
でも触れたところですので、よろしければ併せてお読みいただけたらと思います。
そうですね、基本的に生まれ変わった時点で霊としての(魂の)記憶は封じられて、一応
「ゼロからのスタート」
になるわけですし、養育者も含めた環境をうまく整えれば、それまでの自分とはまったく違う性格のひととして人生を送ることもできると言えるのですが、そうは言ってもやはり
「魂のクセ」
のようなものはあるわけなので、それとあまりにかけ離れた人生や環境というのは、なかなか選びづらいとも言えると思います。
それに今の地球のように、大きな変わり目であることをわかったうえで生まれ変わってくる場合には、よくも悪くも
「今までの自分の集大成」
として人生を構想することが多いと思いますから、その意味でも今までの性質と今生での性質が大きく食い違うということは少ないのではないかと思います。
ただそれを踏まえたうえでも、生まれ変わってきたことで大きく飛躍することはありますし、それだけのダイナミズム(振れ幅)があるというのがこの世界の醍醐味だとも言えるのですが、その一方で、生まれたくて生まれたにもかかわらず、その人生を終えるともう生まれ変わりたくなくなってしまうというのは寂しいことだとも思います。
ですが大原則に立ち返ると、やはりそれも含めて結局はすべて自分で決めることなので、私もまずは自分がどこでなにをしたいかということを、真剣に考え続けていきたいと思っています。