ただひとつの覚悟さえあれば、この世でしてはならないことはなにもない

私たちは自由であるように見えて不自由であり、不自由であるようで自由である。そして、自由はとても魅力的であると同時に、とても厄介なものでもある。

私たちは自由を求めながら、自由すぎる世界で呻吟している
私たちは、自由になりたいと願う。様々な事情により、望まない環境のなかで生活しているひとにとって、なによりも欲しいのが自由だ。しかし私たちは、もうずっと自由を追い求めてきた。その結果、「文明」を発達させ、「便利な生活」を手に入れてきたはずだ。...

このような自由の性質はとても興味深いものだ。そんな手に負えない謎の自由と、私たちは日々なんとか折り合いをつけながら生きているのだが、ときには他者の行動があまりにも自分の感覚とズレていることを知ることがある。つまり、

「自由の遣いかたは、ひとそれぞれなのだ」

ということだ。だが、たとえばそれが凄惨な事件を引き起こしたような場合、私たちはこう問わずにはいられない。

いったい、こんなことが許されていいのだろうか? 私たちはどこまで自由であることが許されているのだろうか?

このような問いに対しての、今の私なりの答えは、

ただひとつの覚悟さえあれば、この世でしてはならないことはなにもない

というものだ。そしてその「覚悟」とは、

自分の行動の結果は、自分で引き受ける

というものである。「してはならないことはなにもない」というのは、ともすると行き過ぎた放任主義にも見えるかもしれないが、冷静になれば、他者の行動を縛りつけることなど誰にもできないことは明らかだ。みなそれぞれが「主体」を持ち、人生を選択して生きているのだから。そしてもうひとつ言えることは、

本当に起きてはならないことは、そもそも起きない

ということだ。私たちが

あってはならないことが起きた

と言うのはただ、「起きてほしくないこと」や「自分の感覚にないこと」が起きたということに過ぎない。世界はあまりにも多様であり、私がすべてを把握できるはずはないし、そもそもその「多様性」を学ぶためにこそ、私たちは生まれてきたのである。

とはいえ私たちは、世界に苦しみが蔓延るのを望まないし、他者と融和して生きていきたいと思っているので、その「自由」に一定の縛りをかけようとしている。その一例が「法律」だと言ってもいい。しかし、どんなに法律を変え、整備したとしても、それを破るひとは必ず現れる。私たちは結局、自らの「良心」以外の規範には、絶対性を見出だせないからである。だからこそ、そのそれぞれの良心に耳を傾けることが大切なのだが、

「できないからやらない」のではなく、「できるけどやらない」のが良心だ
なぜひとを殺してはいけないのですか? かつてこの素朴な問いがテレビの討論会で聴衆のこどもの口から発せられ、その場の誰もが明快な答えを提示できなかったことから、道徳を巡る大議論が喚起された。 普段は、「ひとを殺してはいけない」とい...

実際にはそれはそう容易ではなく、日々いろいろな「事件」が起きているのを、私たちは知っている。

なぜこうなってしまうのかを端的に言えば、彼らは「無知」なのである。なにに対する無知なのか。「悪いことをすれば必ず警察に捕まる」ということではない。実際に、多かれ少なかれ悪事が露見しないままでいる事例もたくさんあるだろう。だからこそ、「バレないならいい」という考えにも至ってしまう。しかし、これこそがまさに最大の無知なのだ。

表面的で短期的なことに囚われるから、

犯罪を犯しても捕まらなければいいんだ

というような考えも出てくる。しかし、率直に言って、誰かに罰せられるか逃げおおせるかなどということは、実のところ「ささいなこと」なのである。本当に重大なことは、

あなたがなにをしたかは、他でもなくあなた自身がすべて知っている

ということだ。これは最大の喜びでもあり、最大の恐怖でもある。わかりやすい例で言えば、自分で

悪いことをした

と思っているのに、それが世間に露見しないまま死んだ霊は、あとあと無限の時間のなかで己と向き合うなかで、いずれ必ず後悔することになる。実際に、私にこう言ってきた霊は数知れない。

こんなことなら、罰を与えてくれたほうがよっぽどラクだった

と。自分の罪悪感にふさわしい報いを受けていないと感じてしまえば、それからどうやって自分を許せばいいのかがわからなくなってしまう。そして、まさにそれこそが最大の「報い」なのである。それに比べれば、世間の刑罰など軽いものだ。むしろきちんと反省の機会を与えられたほうが、次に向かうこともしやすいのである。

このような「犯罪」はひとつの顕著な例だが、私たちは善くも悪くも、自分の行動の結果から逃れられない。だからその覚悟さえあれば、なにをしてもいいのである。なにかを与えたらなにかが返ってくる。この「作用と反作用」は私たちの世界の根本原理のひとつである。だがこれは喜びでもあるのだ。なぜなら、この仕組みによってこそ、私たちはかけがえのない「学び」を得ることができるからである。

「現在」とは「過去の結果」である。だから、自分が今苦しいのなら、どこかでなにかの選択を誤ったということだ。だが、「現在」とは「未来の原因」でもある。だから、現在の生きかたを変えれば未来が変わり、あなた自身も変化するのである。これは単純に見えて究極の奥義である。だから、やりたいことがあればやってみればいい。そうすればなにが起こるかは、あなた自身が確かめられる。そして、望まない結果になったら変えていけばいいし、喜びが生まれたらよりそれを深めていけばいい。こうすれば私たちは、永遠に成長していけるのである。世界とはそのための舞台なのだ。

ただここで私たちの陥りがちな落とし穴は、

自分だけは特別だ

と思ってしまうことだ。それが暴走すると、

人類が滅亡するなんてあり得ない

日本は特別な国なので、大災害が起きることはない

などと考えてしまう。しかし、それは無知でしかない。このまま人類が自然破壊を続ければ、いずれ私たちは自滅するだろう。それは当然予測される結果だ。そこで日本だけが特別に庇護されるなどとは、思い上がりも甚だしいのである。それにもし人類が滅びるときには、私もともに滅びる。それがひととして生まれた私の責任だ。だが、だからこそ私はそんな結果を望まないので、自分にできることをしていこうと思っているのである。

この理解が深まれば深まるほど、生きかたが変わる。本当の結果を知っていれば、他者を殺めようなどとは思えないだろう。

作用と反作用。悪意を与える「覚悟」は私にはない
イライラして壁を殴ったら拳が傷む。これは壁が「殴られる」というかたちで与えられたのと同じ力を、拳に返しているからだ。これが物理科学でも有名な、「作用・反作用の法則」の端的な事例だ。 ここ最近、私は「悪意」についての文章を頻繁に書いてい...

自殺もしないだろう。

自殺して後悔しなかったひとに出会ったことはない
自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜなら、ここには「変死」が含まれていないからである。このあたりの諸事情は、今では誰でも調べることができる...

どうなるのか、やってみたら少しはわかるかもしれないが、やらなくてもわかってほしい。これは私の心からの願いである。私たちがもう少しだけ世界を理解すれば、「法律」など必要なくなるのである。そしてそこから、私たちの真の「自由」が華開く。みなが笑顔で、自分を活かし、他者と支え合う。そんな世界が実現することを、私も楽しみにしている。みなそれぞれが本気になれれば、それは決して、夢物語ではないのである。

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