死を想うよりも、生を充実させるほうに意識を向けたほうがずっといい

memento mori(死を想え)

という警句がある。これは限りあるいのちを意識させることで、それを大事にしようという気持ちを持つことができるという考えかたから、しばしば用いられる言い回しである。しかし、現代文明においては、死は「忌避すべきもの」と捉えられているのが現状だ。そんななかで死を想うということが、必ずしも好ましい結果をもたらすとは限らない。むしろ、「死の恐怖」に囚われ、そこから眼を背けようとして、さらに刹那的な生きかたを選択してしまったり、

なにをやってもいずれは死んで無になるんだ

などと希望を失ってしまったりするひともいる。だから私は、死を想うことよりも、生を充実させることに意識を向けるほうがずっといいと思う。そしてそう決意すれば、あなたにもやりたいことはたくさんあることが、見えてくるのである。

そもそも、死の恐怖があるうちは、死を想うことはむしろ逆効果になりやすい。しかし、いったん死の真実を理解し、死の恐怖を克服すれば、ことさらに死を想う必要がなくなるのである。だから、

死を想え

というのは実のところ大した言葉ではないと私は思っている。それよりも、限りある生をいかに充実させるかを考えたほうが、直接的にあなたの喜びにつながる。また、死の恐怖も克服し、生への執着もなくして生きるひともいるが、それを「執着」と呼ぶかは別として、せっかくの人生をなんらかの喜びを持って生きていきたいと考えるのは、決して悪いことではないと私は考えている。

あるいは、死後の世界の実在を確信し、死んでからも霊存在として好きなことができると知ってしまうと、今生きているのがつまらなくなるのではないかと言うひともいるが、それは早合点というものだ。肉体を介して得られる経験は、霊体でのものよりも段違いに「濃い」ものであり、多くの学びを与えてくれるかけがえのない貴重な期間である。だから私たちは自ら望んで生まれてきたのである。

私たちは誰かに押しつけられた人生を生きたいとは思っていない。それぞれ違った価値観のなかで生きていて、なにを喜びと感じるのかも違うのだから、自...

このことを理解すれば、死後の世界を知ったからといってこの世界を虚しく感じるはずがない。

それに、「生を充実させる」と言っても大げさに考えることはない。食べ物を美味しくいただくこと、自然に触れ合うこと、大切なひととともに過ごすこと、こんなひとつひとつのことを大切にし、穏やかに過ごせる時間を増やすことができれば、それが大きなしあわせそのものである。実際、霊存在はそんなことができる私たちを羨んでいるのである。

また、今の自分の現状に喜びを感じられずにいるなら、なにかを少しずつでも変えてみるといい。それは最初はわずかな変化しか起こさないように見えるかもしれないが、積み重ねていけば大きな作用をもたらすのである。

これは私の経験からも言える。たとえばこの『闇の向こう側』も、当初私が思っていたよりもはるかに多くの方々に受け入れていただいている。それになにより、私自身がこの活動に喜びを見出している。これは自分でも予想していなかった心の変化であり、そのことによって私の生きかたそのものが変化しさえした。そこにはもちろん葛藤もあったが、総合的に見て、私はこの活動を始めて本当によかったと思っているのである。だからあなたも、自分に今できることから、自分の喜びを大きくすることを考えてみてほしい。さて、あなたは今日なにを食べるだろうか? こんなことからでも、真剣になれば、あなたの人生は大きく変わっていくのである。