食費を削って流行を追うひとびとと、古着を纏って玄米を買う私

日本は高度経済成長を経て、世界でも有数の経済大国となった。しかし、日本が淡い幻想に覆われていたのは過去の話で、現在はそれを維持するのが難しくなってきている。政府がどんなに「景気回復」を喧伝しても、日本にも世界にもどんどんカネがなくなってきていて、税金も上がっていくなかで、私たちの生活が右肩上がりに「裕福」になっていくわけがないのは明らかだ。

とはいえ、私たちは未来を思い描きながらも、今ある社会体制とも折り合いを付けながら生きていく必要がある。だからこそ、限られた収入をどのように振り分けるかも重要になってくるのだが、実際にこのような話をしてみると、

毎日カップラーメンで済ましてますよ〜。食費くらいしか削れるものはありませんからね〜

などというひとがけっこういる。そしてそんな方々は、そこで浮かせた資金を交際費や遊興費、あるいは服飾費などに回すことも多いのだという。もちろんそれは着られる服がないからではなく、「流行に合わなくなった」などという理由で、次々と衣服を買い換えるということだ。しかし、私はそんな考えかたには賛同できない。だから、食費を削って流行を追うひとびとがいる一方で、私は古着を纏って、玄米を買いに行くのである。

肉体労働者の作業着やアスリートの運動着などは別として、私が着るような服というのはそう簡単に劣化しない。だから私はほとんど服飾費にカネを遣わない。最後に自分のための服を買ったのがいつだったのかはもう思い出せないほどだ。それに私は電気や水もできるだけ無駄にしたくないので、たとえば電気であれば、契約アンペア数を適正化したうえで、遣わない電化製品のコンセントは抜くように心がけている。そうして浮いたカネで、私は玄米や野菜を買っているのである。これは冒頭で紹介したような方々とはちょうど対照的だと言える。彼らが

食費くらいしか削れるものはない

と言う一方で、私は、

食費くらいはそれなりに確保したい

と思っているのである。

その理由は単純で、

「食べ物がからだを作っているから」

だ。そして、からだがなければ私は生きられない。だから私はからだに感謝しているし、できる限り大切にしたいと思っている。それで、食にカネをかけている。これは極めて明快な立場だと思うのだが、どうやら現代の主流からは外れているらしい。だが、食を蔑ろにした現代人の多くは、当然のことながらあまり健康そうには見えない。あらゆる病気に罹るひとも増えている。それでしあわせでないのだとしたら、優先順位の付けかたを間違っているのではないかと思う。

私は幼少期から病弱だったので、ひとよりもからだの大切さが身に沁みているのかもしれないが、私より頑健そうなからだを持っていながら、それを野放図に扱ったためにむやみに弱ってしまうのを見るのはとてもつらいものである。からだに痛みや苦しみが強ければ、気分も滅入って喜びも少なくなりやすい。そんな悪循環からは、早く脱してほしいと願わずにはいられないのである。

また、

食べものに気を遣いはじめると食費がどんどん膨らんでいくのではないか?

などと心配するひとも多いが、私はそのぶん食事回数を減らしているので、それほど大きな問題でもない。そう言うとさらに心配されてしまうこともあるのだが、私の主食である玄米は栄養が豊富なだけでなく腹持ちもいい。そしてそれをいくつかの副菜とともにゆっくり噛んで食べるなら、1日1食から2食で充分満足できると思う。もちろん、体調や環境によっても異なるので、決して無理はしないでほしい。たとえば私も最近は暑さで体力が奪われるのか1食では少なく感じてしまうこともあるので、1日2食にすることも多い。ただ、3食はやはり多すぎるように思う。多くのひとは

たくさん食べないとからだに悪い

と思っているのかもしれないが、実際には

「たくさん食べ過ぎるからからだに悪い」

のである。

外見を着飾る流行は移ろいやすいものだが、からだを大切にすることは必ず目に見える確かな成果を実感させてくれる。もしかしたらあなたは今人生を楽しめていなくて、

そこまでして長く生きたとしてもなんになるのか?

などと思っているかもしれないが、からだが元気になれば、やりたいことも見えてきやすくなるのである。多すぎるモノはいずれごみになるが、大切にされたからだは揺るぎない財産になる。世界はあなたを待っているのである。まだ出番が来たと思えないなら、そんな今のうちにこそ、しっかり準備をしておくといい。幕が上がるのは、そう遠くないのだから。

コメント

  1. たんぽぽ より:

    ・白米ではなく玄米なのはなぜでしょうか?

    ・肉などを完全に避けるということは難しそうですが(例えば麻婆豆腐などにも細かくひき肉が入っていたりしますし) 、大体献立は決まっているんですか?

    ・卵もなるべく避けた方がいいですか?

    ・人間と小魚(特に意味はない)、どちらとも命の重さは同じだと思いますか?

    自分がどう思うのかが肝心なところだと思いますが、少し参考にしたいです。

    • Dilettante より:

      たんぽぽさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      箇条書きにしていただいたので、私も順にお答えしますね。

      まず白米ではなく玄米にしているのは、栄養価が高いからです。ただ、

      玄米は白米より農薬の害を受けやすい

      という説もありますし、私も玄米は無農薬のものを選んでいます。

      次に献立については、確かにある程度のパターンはありますが、近年ではベジタリアンのためのレシピもネットなどでたくさん検索できるようになりましたし、ベジタリアン対応のレストランなども増えていると思いますので、そういったものを参考にして採り入れてみることもありますね。

      それから卵については、私は摂らないようにしていますが、広義の

      「ベジタリアン」

      のなかにも卵を食べるひとはいます。

      私としては、

      「100か0か」(オール・オア・ナッシング)ではなく、

      「まずはできるところから始めてみる」

      という態度でいいと思います。

      ですから私としては、まず肉類を減らしてみるところから、検討してみたらいいかと思います。

      そして最後の質問についてですが、その存在の核心であり源である

      「魂」

      というところにまで遡って考えると、

      「すべての存在は同じくらい尊い」

      と言って間違いないと思います。

      しかしそのことを踏まえたうえで、

      「単体意識の強さ」

      については、宿る肉体によって大きく異なるとは言うことができ、その意味で

      「魚は人間よりもずっと単体意識が弱く、集合的な生命感覚で生きている」

      とは言えます。しかしそれは種としての優劣ではなく、

      「(肉体世界を体験するにあたっての)魂の成長過程」

      だと思っていただければと思います。

      ただ一方で、

      すべてのいのちが等価だとすると、自分ひとりが生きるためにこれから何百何万の魚を食することを鑑みれば、自分は今死んだほうがいい!

      という考えかたも極端であるということは、明言しておきたいと思います。

      これは言ってみれば

      魂の成長に伴い、他者のいのちに対する包容性も上がる

      というふうにも、捉えることができるかと思います。ですからあらゆる意味において

      私たちは、食べたもの(摂り込んだもの)と一緒に生きている

      ということが言え、それならその責任を果たしながら、かけがえのない人生を生き切りたいと、私も思っています。

  2. だれか より:

    返信ありがとうございました。

    昨日たまたまテレビを見ていて知ったのですが、海外の企業で動物を殺すことなく肉を作る(人工培養肉)研究をしている所があるそうです。1つの肉を作るだけでも莫大なコストがかかっていたそうですが、今ではコストを減らすことにも成功していて2021年までの商用化を目指しているそうです。これが正しい方法なのかと言われればよく分かりません…。

    • Dilettante より:

      ええ、たとえばこんなふうに紹介されているものですね。

      人口の増加、そして異常気象などで将来、食糧危機に陥ると危惧されている。そうした中で注目を集めているのが、人口培養の肉だ。 動物の幹細胞から作られる培養肉の開発を行うMosa Meatはこのほど880万ドル(約9億9000...

      ただこれは

      「動物の幹細胞を培養している」

      という部分をどう捉えるかが微妙なところですが、これとは別に

      「ベジミート」(ソイミート)

      というものもだいぶ普及してきていますよね。

      私としては食の多様性が保持・深化していくこと自体は肯定的に見ているので、みんなが快く食べられるものを食べられるようになればいいなと、素朴に思っています。