生きる義務を果たしつつ、自分のはたらきを活かすことを考える

現代のひとびとが悩み苦しむ大きな理由のひとつは、人生の指針となる確固とした規範や価値観を失っていることにあると言えると思う。ひとはみなそれぞれ違う存在なので、多様な価値観を持つこと自体はいいことなのだが、それがあまりにも倒錯したものであれば、やはり苦しみを生み出しやすいのは確かだ。そしてそれが個人の枠を超えて社会全体に拡がり、「常識」として共有されてしまったような場合、それを真剣に再検討しなければ多くのひとに悪影響を及ぼしかねない。

その一例と言えるのが、「生きる権利」と「勤労の義務」である。これは私の眼から見て、まったく倒錯した価値観であり、多くのひとの苦しみの原因になっていると見えるのだが、私たちはともするとこれをあまりに当然の考えかたとして受け入れてしまいそうになる。しかし、これは実際にはまったく逆だと言いたい。なぜなら生きることは権利ではなく「義務」であり、勤労は義務ではなく一種の「権利」だからである。

そもそも「権利」や「義務」という言葉そのものがあまりに手垢の付いたものになってしまったので、言葉の原義についてここで掘り起こす気はあまりないのだが、端的に言って「権利」というのは

「手放すことができるもの」

であると言える。たとえばあなたが行きつけの店の期間限定の割引券をもらったとする。これはあなたが「決められた期間中にその店で買い物をして、その券を見せれば、一定の割引を受けられる権利」をもらったということである。しかし、だからと言って、あなたは必ずその権利を行使しなければいけないわけではない。望まない権利は手放してもいいのである。だからあなたは、割引券をもらったからといって特に欲しいものがなければ無理に買い物をする必要はないし、気分転換に違う店に入って買い物をしてもいい。これがあなたの「権利」であり「自由」である。

では同じことを「生きること」に当てはめるとどうなるだろう?もし生きることが「権利」だとすると、私たちは

「生きてもいいし生きなくてもいい」

ということになる。だから、

自殺も本人の権利である

という論理を導き出すこともできる。それで、実際にそのような選択をするひともたくさんいるのだが、今までも何度も書いているように、それは決して喜びをもたらす結果にはならない。

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

そもそも自殺という選択をするのは、いくつもの無知と思い込みがあるためだと言える。からだは自分のものだという誤解、死後の世界に対する誤解、自分は孤独であり、誰からも理解されないという思い込み、そして自ら望んでこの世界に生まれてきたことを知らない(忘れた)こと、自分には未来がないという思い込みなど、多くの要因が複合的に絡み合って、自殺という選択肢を浮かび上がらせるのだが、これらは究極的には生きることを「権利」として捉えていることに由来するとも言える。権利だから、手放してもいいと考える。しかし生きることは「権利」ではない。最大の「義務」なのである。

それを「権利」と言える段階があるとすると、それはひとつの生を終えたあとで、霊存在としての期間を経て、「再び生まれ変わるかどうか」を決めるときである。生まれ変わるのは、本人の「権利」である。だから望まないのなら生まれ変わらなくてもいい。だからこそ、生まれ変わると決めた以上は最後まで生き抜くことがひとつの義務なのである。これは他でもなく、「自分自身に対する義務」であり、それを破ると自分自身に苦しめられてしまう。これは他の誰にどんな罰を受けることよりも恐ろしいことである。ただ、そこからでもやり直せるところがこの世界の慈愛なのだが、これだけは体験しなくてもいいと何度でも言っておきたい。

それに、生きることは喜びであり、だからこそ自ら生まれ変わるのである。

あなたは、「生まれ変わり」(輪廻転生)についてどんな意識を持っているだろうか? もちろん、それ自体を信じていないひともいるだろうが、輪廻転生...

それに、私たちは孤独ではなく、多くの「支援者」にいつも見守られている。だから、便宜上「義務」とはいったものの、さほど気構える必要はない。人生は楽しいものだ。ただその「楽しみかた」は、自分自身で探さなければならない。それが生きることの醍醐味である。

だから、「勤労の義務」などという言葉に踊らされないでほしいのである。勤労は決して「義務感」などで行うものではない。自分が喜びと感じられることをしながら、自他ともに活かす活動である。それにそれは社会の枠に定められた、(資本主義的)「勤労」というようなものに囚われるべきものでもない。私たちの「はたらき」は、そんなに硬直的なものではないのである。私たちが

仕事が欲しい

職がない

などと言うのは資本主義社会の価値観にがんじがらめになっているだけで、本当ははたらいていないひとなどいないのだ。生きているだけで、私たちはなんらかのはたらき・役割を果たしているのだから。そのことを踏まえたうえでなら、現代社会を生きるのに必要なカネを得るのにはどうしたらいいのかを考えるのにも確かに意味がある。私もそれはいつも考えている。しかし、違う種類の問題を混ぜこぜにしてしまっては、解決するものも解決しなくなってしまうのである。

自分も生きているだけでなんらかのはたらきを果たしている。このことを理解したうえで、ではそのはたらきをいかに高めていくかを考えること、それがまず大切な生きる指針になる。そうやって歩んでいけば、いずれ職もカネも得られるようになっていくだろう。だがもしそれが得られなかったとしても、卑屈になることはない。たとえば病で療養中でカネを稼いでいないからといって、あなたの価値が低いわけではないのだ。社会の枠に囚われる必要はない。周りのひとに笑顔で接しただけではカネはもらえないかもしれないが、それは大きな役割である。できることも量もひとによって違う。だが自分にできることをやることは喜びであるし、喜びを得ればますます活動したくなるものだ。だから、ひとびとが真に生きる意味を理解すれば、怠け者などいなくなるのである。それはあまりにもったいないことなのだから。

霊存在のなかにも、まだまだ肉体人を自分より下等な存在と見なすひとがたくさんいる。

ひとなどは、まだ生まれ変わって学ぶ必要がある、哀れな未熟者だ

というわけである。しかし、ひとつひとつを理解すれば、生きることはどんどん面白くなってくる。私もやっとそれが少しずつわかってきた。だから、これからあなたももっともっと楽しくなる。そのためにも、誤った観念からは早く自由になってほしい。そうすれば、いずれ私たちを侮っていた霊存在も目を瞠ることになるだろう。そして

生まれ変わりたい

と言ってくるかもしれない。これほど「してやったり」なことはない。そんな未来が来るまでは、私もまだまだ生きてみたいと、思わずにはいられないのである。