霊に乗っ取られているときの行動は、誰が責任を取るのか?

エクソシスト(祓魔師・悪魔祓い師)は映画や小説の世界だけに存在するわけではない。今もなお組織的に存在するひとびとである。そして彼らのもとには現在でも多くの相談者が訪れるのだという。その実態に迫った映画や書籍もあるが、たとえばネット上にも

というものがあり興味深かったので、関心があればいちど読んでみてほしい。

私は彼らにも存在意義があることは明らかだと思うし、インタビュー中にも、

ほとんどのエクソシストが使う儀式の書物でも、まずは医者に見せること、というようになっていて、数字としては97%ぐらいは悪魔憑きではないと言うことで処理されており、実際残り3%程度、あるいはもっと少ない1%以下の事例が本物の悪魔憑きと言うことになっています

とあるように、彼らも安易にすべてを悪魔(悪霊)の仕業と考えているわけではないことがわかって、安心もしている。とはいえ、彼らも実際に多くの悪魔と出会ってきたことだろう。だからこそ、エクソシストが「悪魔」をどのように見なしているかが気にもなるのだが、おそらく彼らも一般の多くの方々も、「悪魔」というと

人間離れした驚異的な力を持つ存在であり、本気で狙われたら人間には太刀打ちできない

と考えているのではないかという気がする。エクソシズムのなかでも、悪魔を祓うのは「神父の力」ではなく、彼らの背後にある「神の力」であり、エクソシストはその力を表現するための「仲介人」に過ぎないという考えかたが主流なのだ。

だがもしそうだとすると、

「悪魔があるひとを標的にして乗っ取ろうとした場合、そのひとは基本的に自力では抵抗できず、その結果乗っ取られてしまえば、人生が破壊され、いのちすら奪われてしまいかねない」

ということになってしまう。あらゆるホラー映画やまことしやかに伝えられるオカルト話のように、いちど「異世界」に落ちてしまうと、もはや自力では這い上がれないかのようだ。だが、それは本当なのだろうか?私はそうは思わない。霊存在とひととの関係をきちんと整理して理解したとき、私たちはそのような誤解や無用な恐怖から、解放されることができるのである。

単純な問いから考えてみよう。霊に乗っ取られているときの行動は、誰が責任を取るのか?たとえば私が悪意ある霊存在に乗っ取られてしまい、他者を傷つけてしまったら?もちろん責任を取るのも、周りに裁かれるのも私だ。これは当然のことなのだ。周りからは私がやったようにしか見えないし、実際に霊は「私のからだを通じて」行動を起こしたのだから。

さて、ここでもしひとが霊存在に対して圧倒的に非力であるのだとすれば、この事態は理不尽であり、私は実質的には被害者であることになる。だが、実際にはそう単純な話ではない。なぜなら私は私のからだと精神に関して「主体」を持っているのであり、その範囲において私より強い権限を持つ存在はいないからである。つまり、私がしっかりと主体を握っている限り、わたしのからだを乗っ取れる存在などいないのである。

ここに例外はない。たとえば多くのひとびとに恐れられている「サタン」といった存在であれ、「大悪魔」であれすべて同じだ。元はといえば彼らを生み出し、強力にし、悪意を増幅すらさせたのは他ならぬ私たち自身なのである。そして実際には、

「敵わないと思っているから敵わない」

のである。これは決して相手を見くびることではない。実際強い負の念を持った霊存在と接触すると、それによって自分の主体が揺らぎ、心が惑わされ、からだを明け渡しそうになってしまうこともある。相手にもそれなりの想いとその原因がある以上、それを軽んじることはできないのである。だが、だからといって私たちが引けを取る理由はまったくない。想念界では「想いの深さ」がすべてを決する。ならば相手の負の念に踊らされず、毅然とした想いで対処すれば最後には必ず、主体を持つ私たちが勝るのである。

だからこそ、私たちは無用な恐怖心を持つ必要はない。逆に言えばたとえ自分が乗っ取られてしまっていたとしても、その行動の責任は、最終的にはからだを持つ本人に帰するのである。ただ、それが事実だと認めたとしても、やはり他者のからだで好き勝手なことをした霊にまったく責任がないというのはおかしいと思うだろう。その感覚は間違っていない。確かにその霊は人間界の法での裁きは免れるかもしれないが、想念界ではその必ずそれなりのツケを払うことになる。だから、悪いことはしないほうが身のためである。

こういったことを踏まえて正直に言えば、世間を騒がせる重大事件の犯罪者のほとんどには、なんらかのかたちで霊存在が関与しているように思える。というよりも、私たちは誰であれ、純粋な「自分の意志」だけで行動しているわけではないのだ。その意味で、あらゆる活動は「霊とひととの共同作業」であると言える。それが負の方向に向かった一例が犯罪だと言うことはできるが、それも「同じ穴のムジナ」が集った結果なのである。これはつまり、なんらかの「共通点」がない限り、霊とひととは感応しないということでもある。だから、私たちが普通に暮らしていていきなり凶悪な霊存在に乗っ取られ、人生を無惨に破壊されるということはほぼ起こり得ないと考えていい。

そうは言っても、無垢な少女に悪魔が取り憑いた例もあるではないか?

というかもしれないが、それは極めて特殊な例であり、それはそれで霊世界を私たちに知らしめるひとつの「役割」でもあったのである。それにそれはもはや過去の話であり、必要以上に怯える必要はないし、あなたや私がそんな役割を引き受ける必要もない。そんな時代は終わったのである。

最後に改めて言っておきたいのは、自分の喜びを高めること、そして守護霊に意識を向け、からだをいたわる時間を持つことの大切さである。これはあらゆる意味で最大の自己防御法でもある。これができれば、あなたは無敵である。そのうえで余裕があれば、虐げられ軽蔑の眼を向けられてきた存在にも、ときには想いを向けてあげてほしい。そのような存在が屈折した結果生まれたのが悪霊なのだが、彼らもいずれ必ず変わるのである。そしてそのためには、「理解された」と感じさせることが重要なのだ。それこそが愛である。それが世界に満ちたとき、悪魔はその姿を変え、笑顔になる。そして私たちの未来を育む力になってさえくれるだろう。元はといえば、私たちはみな仲間だったのだ。そのことに気付いたら、世界から憎しみは消え、残るのは喜びだけだ。そここそが楽園である。そしてそれはその気になれば、今すぐにでも創り出せるのである。