男系社会と女系社会。家の名前が途絶えることを過度に恐れる必要はない

私には男子がいません。このまま行くと家が途絶えてしまいます。どうしたらいいのでしょうか?

ときにこんな相談を受けることがある。日本は晩婚化の傾向が強まっていて、今では不妊に悩んでいるカップルは7組に1組もいるとも言われている。そこに経済成長の停滞などの複合的な要素が絡み合って明らかな少子高齢化の流れのなかにある以上、こうした不安を持つひとは今後ますます増えていくのかもしれない。

だが、たとえこどもがいなかろうが、いてもすべて女子なので家の名前が存続できなくなりそうであろうが、そんなことはそれほど深刻なことではない。人類は全体としてはむしろ爆発的に増えているのだから、少なくとも当面の間は、子孫がいないことで人類が絶滅するとは考えられない。それにあなたの墓の前で掌を合わせてくれるひとがいないからといって、あなたが死後不幸になることはない。そもそもこどもは「授かりもの」でもあるのだから、縁あって育てることになれば大切にすればいいし、そうならないのなら過度に固執してもどうにもならないのである。

また、せっかくこどもに恵まれているのにも関わらず、すべてが女子であることを悩んだり、挙げ句の果てには

この家は呪われているのではないか

などと考えるひともいるのだが、これも完全な思い込みであると言える。女子であってもあなたの遺伝子は半分受け継がれていることに変わりはないのだし、家の名前が途絶えようと特に大きな問題にならないことは先に書いた通りだ。そもそも、「結婚制度」や「戸籍制度」というものは「所有」の概念、突き詰めれば「カネ」の問題と直結しているので現代では重要視されているとも言えるのだが、現代の主流が男子に家の財産を受け継がせる「男系社会」にあるからといって、それが絶対的な在りかたというわけではない。それは単にそのときの社会が決めた「制度」に過ぎないのだ。だからこれがいずれは「女系社会」に変化したとしてもなんの不思議もないのだが、一説にはこれからの時代は「女性性」の時代だとも言われている。

そして男性は中性化し、女性は逞しさを増しているようにも思える。こうしたことを踏まえて考えると、私にはひとつの可能性としての未来が、浮かび上がってくるのである。

女性は力では男性に劣る。しかし女性には、どうしても男性が敵わない重要な特質がある。それは出産能力である。仮に人類が10人しかいなくなっても、9人が女性でひとりが男性であれば翌年には最大で9人(双子なども考えればそれ以上かもしれない)のこどもが生まれる可能性がある。しかし逆の割合であれば翌年に生まれるこどもはひとりでしかない。その意味で、女性は「いのちを育む能力」において、圧倒的に男性の上を行く存在なのである。

それに女性には男性よりも明らかに優位な点がもうひとつある。それは、「誰が自分のこどもかを確実に判別できる」という点だ。女性は自らの胎内でこどもを育み、出産する。だから自分のからだから生まれたこどもは、まぎれもなく自分のこどもだと断言できる。ところが男性はそうではない。自分の伴侶だと思っている女性から生まれたこどもが、必ずしも自分のこども、つまり自分の遺伝子を受け継ぐ存在であるという確証を持つことは、はるかに難しいのである。これは生物として見たとき、男性のひとつの劣等感の基にすらなり得るものである。

現代ではDNA鑑定などの技術が発達したことによって、こうした問題を解決する手段もあるように見える。しかし、場合によってはこれが隠された問題を明るみに出すこともあり、却って事態は混迷の度を深めてすらいるようにも思えるのである。そして前述したようにここにカネの問題が絡むので、ますます事態は紛糾していく。この流れは当面止まりそうもない。

だがこうした問題は、もし私たちが女系社会を選択したら、ほとんど一挙に解決する。女性に家を継がせ、財産を継承させる。そして男性が女性の家の婿に入る。つまり、家の名前は女性に付くのである。するとそのときにはこんなひとが出てくるかもしれない。

私には女子がいません。このまま行くと家が途絶えてしまいます。どうしたらいいのでしょうか?

実際に現代でも女系の国や社会は存在する。古代では女系社会は現代より広く採り入れられていたという説もある。日本でも、邪馬台国の指導者の卑弥呼は女性であり、弟はその補佐役だったと考えられている。ただそれならば、なぜ現代の私たちは男系社会を選んだのだろう? なぜ男性は女性の上に立とうとしたのだろう?

ここからは想像でしかないが、もしかしたら、それは男性の女性に対する劣等感の裏返しだったのかもしれない。いのちを育む力では女性に敵わないことを知っていたからこそ、女性を腕力で支配することで優越感を得ようとしたのかもしれない。そして男性が本気になれば、それは確かに可能なのである。だが、それで私たちがよりしあわせになったのか、それはわからない。だからといって私はことさらに女系社会を崇拝しているわけでも、女系社会への転換を促しているわけでもない。ただ、私たちが「常識」だと考えている思考の枠組みは、実のところ絶対的なものではなく、未来にはまったく違ったかたちに変化する可能性もあるということを示したかったのである。

一般に男性は開拓したり、未知に挑戦したりすることが女性に比べて得意だとされている。逆に女性は堅実に、今あるものを護ることが男性より得意だとされている。だから男性はより革新的に、女性はより保守的になりやすい傾向があるとも言える。しかしこれは役割の違いであり、優劣ではない。むしろ人類が様々な環境に適応し、困難に立ち向かうためには、男性的な特質は欠かせないものでもあったはずだ。しかし翻って現代はどうだろう? 人類は既に地球の隅々にまで拡散した。野放図で急激な「発展」と「競争」はもはや私たち自身の首を絞めつつあると言える。だからこそこれからは、もっと穏やかに、今あるものを大切に、他者と調和して生きていく道を模索していく必要があるのではないだろうか?だとしたら、そこではむしろ女性性こそが、未来を拓くカギになり得るのではないだろうか?

こう考えると、私には昨今の様々な現象が、ひとつにつながったものとして腑に落ちるような気がする。もちろんこれはあくまでも私の予想に過ぎない。しかし、自分の家の名がなくなるかどうかなどといったことよりもはるかに重要なのは、これからの未来を生きるひとびとが、いのちが、よりしあわせになることである。そして私はそのためになら、自身のいのちを懸ける価値があると考えている。たとえ私の遺伝子が誰にも継承されなくても、私のしたことが未来に役立つなら、それに優る喜びはない。もしそれができたなら、そのときこそ私は悔いなくこのからだを離れ、また次の生に向かうことができると、そう思っているのである。