どこにいても安全だと言えないのなら、自分の好きな場所にいたほうがいい

東日本大震災があってから、誰もが放射線について深く考えるようになった。しかし、放射線が人体に与える影響については未だに意見が分かれていて、はっきりしたことは言われていない。つまり、様々な情報をどう判断し、どう行動するかはすべてそれぞれの選択に委ねられたのである。東日本を離れたひともいる。危険があることを覚悟のうえで、故郷に残ったひともいる。あるいは日本そのものに嫌気が差して、国外に出たひともいる。これはすべてそのひとの「信念」によって行われたものなのだから、どれが間違っているということはない。むしろ、誰もが正しいと言える。

ただ、東日本に危険を感じたり、日本に嫌気が差して国外に出たひとがいることを踏まえて、

では、西日本や海外は安全なのか?

と考えてみると、実のところまったくそんなことはないこともわかる。西日本は福島原発からは遠いかもしれないが、PM2.5の影響は東日本より強いかもしれない。台風の影響もより受けやすい。それに、日本はこれから数十年の期間で考えると、東南海地震や首都直下型地震なども含めて、もはやどこで巨大地震が起きても不思議ではないとされている。だからと言って、海外は海外でそれぞれの問題を抱えていて、あるいは日本より治安も悪く、水も清潔でないかもしれない。

つまり、私たちはもうどこにいても、自分がまったく安全だとは言い切れないということだ。それはもちろん自然現象に限らず、事故や事件、病気などによって、いつなんどき自分が予想もしていなかった事態に巻き込まれても不思議ではないのである。このような事実を真摯に受け止めたなら、やはり私たちは自分の好きな場所にいて、自分の好きなことをして生きていったほうがいいということに行き着くはずだ。私たちの今生の時間がいつまであるのかは誰にもわからない。だからこそ、

ここでなら、これをしているときなら、このひとと一緒なら死んでもいい

と思えるような状態に身を置くように、私たちは真剣に取り組んだほうがいいのである。

こどもはまだ比較的「世間の常識」に染まっていないので、自由に行動することが多い。言いたいことは言うし、やりたいことはやる。一緒にいたくないひととは一緒にいない。それはある意味「残酷」に見えることもあるが、それも含めてこどもには活気が満ちている。だが、それはときに危険だったり、周囲との和をあまりに乱すことだったりすることもあるので、そうしたときに彼らに歯止めをかけるのが、大人であるといえる。こうしてこどもは周りとの「協調性」を身につけ、自分の意志と集団の意志との調和を取ることを覚えていく。しかし、それはいい面ばかりではない。そもそも現代ではほとんどのひとが病んでいるのだから、そこに馴染んでいくと必然的にこどもも病んでいく。実際、今では「大人びたこども」があまりに増えているように思える。そして、社会や周囲の人間から与えられた「人生プラン」に流されながら、生きていってしまうのである。

しかしこうしてこどもから大人になった私たちだが、ここで非常に興味深いことが起きる。集団や社会と調和し、ときに自分を殺すことも求められながら生きてきた大人たちは、ある一定の時期を超えると、またこどもに戻っていくのである。「年をとったら子どもに還る」とはよく言われるが、その究極点が「死」であるとも言える。私たちは「死」によって再び「生まれる前」の状態に戻る。そして自分の行動の結果と自身の体験だけが、後に遺るのである。

ここで考えなければいけないことは、現代の私たちは大人からこどもへと還る過程のなかで、ほとんどのひとがなんらかの病を経験するようになっているということである。たとえば近年ますます増えている「がん」は、もはや2人に1人が経験するほどに広まっていると言われている。だが、これはこどもから大人になる過程で自分を抑えつけてきた反動が、時間差で現れているからだと、私には思えてならない。また、「認知症」の患者もますます増えていると言われているが、このような状態になると

「我慢ができず、自分のしたいこと、本能的な行動を採るようになる」

とされる。だがこれはつまり、こどもから大人になるなかで与えられてきた「世間の常識」から再び自由になり、こどもに還ろうとする現れなのではないだろうか?

これは必ずしも現代の医学の考えかたとは一致しないかもしれない。しかし、「ストレス」が万病の元であることはほとんど認められている。では「ストレス」とはなんなのだろう? これは言い換えれば、「抑えつけてきた、自分自身の心の声」ではないのか? 自分が本来望む生きかたをしてこなかったから、そこで溜まってきた「ストレス」が自らの体内から「がん」を生み出す。あるいは言いたいことが言えず、やりたいことをできなかった反動で、認知症になったあとに傍若無人な行動を採ってしまう。つまり、人生が「なにもない状態で生まれ、なにかを得て、それをすべて還して死んでいく」という過程だと考えるなら、「ストレスがあるからがんになる」のではなく、

「溜まりすぎたストレスを発散させるためにがんができる」

ということもできるのではないか?あるいは「認知症になったために勝手な行動を採る」のではなく、

「自由な行動を採り、抑えつけてきた感情を発散させるために認知症になる」

という見かたもあるのではないか?

このような観点から考えると、現代に病が増えていることにも頷ける気がしてくるのである。病を得たひとびとやその周囲のひとびとに苦労が多いのは確かだが、それを機に周りとの関係が深まっているという面も、確実にあると感じられるのである。まるで、それまで得られなかったもの、あるいは失ったものを、取り戻そうとしているかのように。

認知症になると穏やかだったひとが急激に暴れたり、暴言を吐いたりすることがあるという。あるいは温厚だったひとが、死が近付くにつれ人生に絶望し、過去を呪いだすようなことも珍しくないとされている。これは確かに病理的な要因や、からだが弱ったことによる精神への影響から説明することもできるだろう。だがやはり、そこには多少なりとも彼らの「本音」や「心の声」が込められているように思えてしまう。だとしたら、彼らの悲劇は病になったときからではなくもっと以前から、始まっていたのである。

私は自分がいずれさらに老い、弱ったとしても、周囲に暴言を吐くようなことはしたくないと思った。だからこそ、生きかたを変えようと決意したのである。もちろんまだそれは完全に理想的なものだとは言えない。それにどこまで行っても「完成」というものなどないのだろう。しかし、少なくとも10年前と比べれば、私の人生の喜びは多少なりとも増えてきていると感じているのである。生きかたを変えるのには勇気が要る。だがそもそも「安全な場所」や「安全な生きかた」など、もはやどこにもないのである。だから私はあなたにも、自分の心に素直に、楽しく生きてほしいと心底願っている。私がいくら言っても、それはあなたにしかできない。だがあなたがその気になれば、それは必ず、成し遂げられるのである。