「神」(はたらき)と「神霊」、そして<神>の概念の違いについて

読者のかたから、「神」(はたらき)と「神霊」の概念の違いについてご質問をいただいたので、ここで改めて書いてみたい。なお、以前にも

神社に行って掌を合わせる。そこにはたとえば、「明治天皇」などが祀られていたりする。また、「聖徳太子」や「空海」が祀られている寺院がある。しか...
あなたは『風神雷神図屏風』を見たことがあるだろうか。これは俵屋宗達版がオリジナルで、その後何人かによって描かれているのだが、この屏風絵のモチ...

というページでこれらの概念について触れているので、併せて読んでいただければより理解しやすいかと思う。

さて、そもそもこのような区分けは、どこかの宗派や書物に体系的に説明されているものではない。ではなぜわざわざこのような分類を持ち出しているかといえば、第1に現代の私たちに馴染んでいる<神>の概念が、あまりにも混乱していることに理由がある。私たちはともすると「神社」に祀られているような存在を<神>と見なし、

それらを崇めたりカネを喜捨したりすればもしかしたら願いを叶えてくれるのではないか?



と期待してみたり、あるいは

願いを叶えてくれないような存在なんて、なんの御利益もないじゃないか!

などと言って罵倒してみたりする。しかし、「神」とは本来そのような存在ではない。たとえば神社にいるような存在は「神」ではなく「霊」なのだ。このようなことをひとつひとつ理解することから、すべてが始まるのである。

「霊」というのは「エネルギー体」と言い換えてもいい。だから厳密に言えば私たちも「肉体に宿る霊」であるのだが、ここでなにも言わずに「霊」と書いたらそれは「肉体を持たないエネルギー体」のことを言っていると思ってもらえればいい。それをより区別しやすくするために「霊存在」という言葉を遣うこともあるが、これは肉体に宿っている私たちを「肉体人」としたときに対になるものとして言っているものである。

そうすると、「霊存在」と「肉体人」の違いはなんなのかと言えば、それはひとえに「肉体」(からだ)を持っているかどうかという点に尽きる。それが最大の違いであるのだが、逆に言えばそれ以外はまったく変わらない。つまり、霊にも私たちと同様に、様々な価値観や意志を持つ存在がいるのである。

そしてそれは、いわゆる「神社」や「仏閣」に祀られている存在も例外ではない。だからそこにはもちろん私たちのしあわせを願う存在がいる場合もあるが、一方で長らく崇められたことで自分が「特別な存在」になったと思い込み、驕り、傲慢になっている存在がいる場合もあるのだ。神社にいるような霊がすべて善意の存在だと考えるのは、大きな誤りなのである。

だから、私はあまり安易に「神社巡り」などをして、個人的な願掛けをして回るようなことは勧めない。そこにいる存在がどんなものかもわからないのに、自分と縁をつないで回ることになるのだから。そして多くの場合、そこに祀られているのはかつて実際に肉体を持って生きていた「人間霊」(人霊)、あるいは人間の想像力によって生み出された存在(観音菩薩など)である。それらは「神」ではないのだ。それに自分にとっての近しさから言えば、先祖や守護霊に想いを向けたほうがよほど通じやすいし、見ず知らずのひとに願われるよりは、相手に喜んでもらえる可能性も高い。そのためにどこか特別な場所に出かける必要もまったくないのである。

では、「神」(はたらき)とはなんなのかと言えば、「喜びを育む存在」であるというのが最も単純な答えである。だから、私たちが認識できる最大の「神」は「宇宙」であると言っていい。あるいは「地球」や「太陽」もそうだし、「水」や「火」といったものもすべて「神」である。それは固定されたものでも、「人格」などの「枠」に囚われるものでもない。それ全体としての「動き・システム・流れ」そのものが「神」なのである。

そして、そのような「神」(はたらき)を支え、私たちの喜びが大きくなることを願っている霊が「神霊」であると言える。これは私たちに「負の念」を注ぎ、それを糧に生きる「曇り」・「穢れ」・「邪」・「魔」(負の霊団)といったものの対となる存在である。

「スピリチュアル」の世界でよく言われるのが、(魂の)曇りを取りなさい邪気を払いなさい私たちは度重なる輪廻転生のなかで...

だから、「守護霊」も「神霊」の一種だし、神社にいる存在のなかにも「神霊」は存在するということだ。

それでは私たちが山に行ったとき、交流できる存在はなんなのだろうか?今の私たちはこれを「山の神」と呼んだりする。しかしこれは正確には「山の神霊」、よりわかりやすく言えば

「山を愛し、その山に関与しながら私たちのしあわせを願う霊団」

なのである。だから、私たちも死後に自分の好きだったものを護る「神霊」になることができるのだ。そして守護霊にしろ誰にしろ、私たちと同じように肉体を持っていた時期があり、今後また生まれ変わって肉体を持つ可能性もあるということなのである。

こうした関係性を理解すると、いずれ「神社」も「仏閣」もすべてそのかたちを変えることになるだろう。それは<神>が消えるということでもある。だが、「神霊」や「神」が消えるわけではない。私たちの想いが通じなくなるわけでもない。むしろ、霊存在と私たちの関係はより深くなり、私たちの不安は消え、複雑な概念はすっきりと整理されるだろう。「真実」とは、実のところそれほど小難しいものではないのだ。

だが、難しいものでないからといって実践するのが簡単だとは限らない。むしろ、単純なものほど見落とされやすく、素朴なものほど誰にも顧みられないとすら言えるのである。だが、いつまでもよくわからないものをよくわからないままにして、混乱させておくのはそろそろやめにしようではないか?真実を理解したからといってそれをすぐに活かせるとは限らない。私自身もこう言ってはいながらまだまだ未熟である。しかし、まずは知らなければなにも始まらないのである。知ること自体が変化を促す。

だからある意味、知ることは怖いことだし、責任も伴うものだ。だが、それを真摯に受け止め、真剣になれば、それはきっと喜びへと活かすことができるのだ。だから私はこれからも、私なりの「真実」を伝えていきたい。そしてそれがもし少しでもあなたの喜びに役立てられたなら、それは私だけでなく、多くの存在の願いが、叶えられたということなのである。