現在は戦後でも戦前でもない。「経済戦争」の真っ最中だ

1945年以後、私たちは「戦後」の時代を生きているとされてきた。だが、世界では未だに様々な紛争が繰り広げられているし、日本でも周辺国との緊張関係や、国家安全保障を巡る議論の高まりなどを背景に、現在を「戦前」と見なすような意見も提示されている。しかしそもそも、「戦争」とは肉体的交戦による直接的ないのちの奪い合いだけを指すものではない。私たちが戦争を拒絶したいと思うのは、誰も殺したくないし誰にも殺されたくないというだけでなく、いのちが軽々しく失われていくのを見たくないからでもあるはずだ。

しかしそのような目線で見れば、自殺者が世界で年間100万人を超え、治せる病気や飢餓で日々いのちが失われていく現状を「平和」だと言えるはずもないことに気付かされる。現代の「戦争」は、もはや銃火器や剣や戦闘機で行われるものではなくなったかもしれない。だが代わりにもっと容易に国境を越え、ありとあらゆるところで飛び交うものによって行われるものにかたちを変えたに過ぎない。そしてそれはある面ではむしろますます苛烈さを増しているとすら言える。つまり、私たちが真摯に認めなければならないのは、現在は戦後でも戦前でもなく、「経済戦争」の真っ最中だということなのである。

現代の「経済戦争」における最大の武器は核兵器ではない。誰もがもっと容易に扱えるがもっと強力なもの、「カネ」である。そしてその「カネ」を巡ってひとびとは争わされ、その多寡によって厳然とした「格差」が生まれる。あるひとを攻撃したければ、そのカネを奪い取ればいい。このカネの強固な権力は、嗜好品だけでなく、衣食住の「生活必需品」にも及んでいる。つまり私たちは、

「生きていくためには闘わなければいけない」

という状況にあるのである。これが戦時でなくてなんだというのだろう?

かつて戦時中には様々な「標語」(スローガン)が編み出され、ひとびとの戦意高揚に用いられた。それはかたちを変えただけで、現代でもそこらじゅうで見受けられる。かつて

ぜいたくは敵だ!

と言われていたものは

節制は敵だ!

に変わり、

進め一億消費者だ

と言わんばかりに購買意欲が煽り立てられる。かつては戦地に赴いて戦闘に参加できないひとは生きる価値が低いかのように見なされていたが、今は自力でカネを得られないひとはまるで「非国民」のような扱いを受けてしまうことがある。

ぜいたくは出来ない筈だ

と言われていたのは過去の話で、今では

ぜいたくのひとつも出来ないのか?

と蔑まれてしまうのである。これが戦時でなくてなんだというのだろう?

かつては「植民地主義」が採られ、武力によって覇権が競われていたが、今では同じことがカネによって行われるようになった。事実、日本の山林や水源地も各国の富裕層によって着々と買い占められつつあると言われている。これがある臨界点を超え、環境破壊が進めば進むほど、

「清潔な環境で充分な食糧を得られるのはカネ持ちだけ」

ということにもなりかねない。というより、既にそのような状態が生まれてきているのである。これが戦時でなくてなんだというのだろう?

さらに、私たちは同種族に対してだけでなく、他の生物や地球そのものに対してすら「戦争」を仕掛けている。現在は人類の圧倒的な「戦力」によって絶対的優位を築いているようにも見えるが、これは最終的には必ず破綻する。なぜなら、他の生物や地球を攻撃することは、結局は自分自身を攻撃することを意味するからだ。

これはブラックジョークでもなんでもない。このような状況のなかで、ひとびとは気力を失い、未来に不安を抱きながら生きている。

戦争は嫌だ

と言っている一方で、私たちは今まさに「戦争」に参加させられているのである。今私たちが過去の大戦を振り返ってみたとき、そこは「洗脳」や「不寛容」、そして「熱狂と暴走」があったことを見て取ることができる。しかし、その風潮が強力であればあるほど、

「その最中にあるひとびとは、その異様さに気付かない」

ものなのである。だから、現在の私たちの状況を冷静に観察してみてほしい。これが戦時でなくて、いったいなんだというのだろう?

私たちは誰も、ひとを傷つけることを望んでいない。自分が傷付けられることも望んでいない。だからこそ私たちは、しっかりと現状を受け入れ、この「最大にして最長の戦争」を、終わらせなければいけないのである。私たちは日々を、現在の社会の枠組みのなかで生きていかなければならない。長らく続いてきたものを、即座に変えられるはずもない。だがまず大切なことは、

自分がどんな状況にあるのか?

に気付き、それが望まないものであれば

変えよう

と決意することだ。先の大戦から、私たちの社会は大きく変わった。あのとき誰が、今の社会を想像できただろう?だから、善くも悪くも社会は変わり得るのである。ならば、私たちも自らの意志で少しでも善い方向に変えていこうではないか?それは現在の私たちのためであると同時に、未来の私たちのためでもある。そしてそれこそが、未来のしあわせを願いながら亡くなっていった多くのひとびとに対する、最大の供養にもなるのである。