世界を動かすのは多数派だが、世界を変えるのは常に少数者である

私たちはそれぞれ望みや思惑に基づいて行動している。しかし、それはときとして他者との調整や妥協の必要を生じさせることがある。たとえば団体の旅行先を決める場合、あなたは京都に行きたいとしても、別のひとは東京に行きたいというかもしれないし、またあるひとは名古屋に行きたいというかもしれない。そういった場合に、あくまでも団体として動かなければいけないのなら、すべてのひとの願いを叶えることはできないことも多い。だから、現代の私たちは様々な場面で「多数決」を用いて集団の意志を調整し、決定する。あるいは特定のひとの影響力が他のひとよりも強い場合、周囲の反対を押し切ってでもその権力者の意見が通ることもあるかもしれない。だが、なぜその特定のひとの影響力が強くなるのかと言えば、結局はそのひとの「資金力」が大きかったり、「支援者」がたくさんいたりするからである。つまり現代では、そうした複合的な要素も含めて、相対的に「多数派」に属するひとびとが、世界を動かしているのである。

だが、世のなかの流れというのは決して一定ではない。どんなに強い勢力や方向性も、いずれは変化する。そうなったとき、それまでの時流に乗っていた「多数派」は、その力を失っていくことになる。しかし彼らはそれまでは順調だったのだから、新しい変化にどう対応していいのかがわからないことが多い。そもそも、流れが変化していることにすら、すぐには気付けない。それまで「多数派」だったことが、却って彼らの眼を曇らせ、足を竦ませるのである。だから、時代の変転期においては、多数派に期待するのは難しい。そしてその逆にカギを握るのが、それまでは「少数者」だったひとびとなのだ。つまり、世界を動かすのは多数派だが、世界を変えるのは常に、少数者なのである。

近年では毎年のように「異常気象」という表現を耳にするようになった。だがこの「異常」という言葉は、いずれは「正常」な状態に戻ることを暗に期待されているからこそ用いられる表現である。多数派のそれまでのやりかたや価値観が通用しなくなったとき、初めは必ず「異常」だと認識される。しかし「異常」というのはあくまでも「例外的」な現象なのだから、いずれはきっと「正常」で「一般的」な状態に戻ると期待されているのである。だが、時代が本当に大きく動くときには、それは単なる「異常事態」ではなく、「新しい流れの始まり」なのかもしれないのだ。つまり、今の状態が「異常」なのではなく、過去のやりかたが「時代遅れ」になり、それまでとはまったく違った価値観が求められているのかもしれないのである。

その「変化」がある一定の線を超え、それが誰の眼にも明らかで、どうにも止められないものになったとき、それまでの「多数派」は一転して苦しい立場に置かれることになる。今までは通用していた手法が通用しない。安泰だと思っていた地位が危うくなる。こうしたときの「多数派」の最も大きな弱みは、彼らに「問題意識」がないことにある。自分が「多数派」に属しているうちは、集団の意志や利害と自分の立場が一致しているのだから、極端に言えばなにもしなくても自分の利益が確保される。だから、現状の課題や、自分の手法の粗や弱点に気付くのは難しい。そんなものを探す必要もないからである。だが、一転して時勢が変わったとき、それが彼らの最大の弱点となる。たとえ時代が変化していることに気付いたとしても、具体的に自分がどのようにそれに対応し、どう変化すればいいのかがわからないからである。

一方、「少数者」はそうではない。集団の意志や利害、求める生きかたにそぐわないのだから、なんとかして自分の生きかたを見つけていかなければならない。誰も自分のことなど見向きもしていないような状況のなかで、彼らは自分の置かれた状況を強烈に意識せざるを得ない。彼らは社会の問題にも敏感だ。なぜならそれは彼らにとって「日常」なのだから。その重圧と孤独感に押し潰されそうになりながらも、彼らは自分で仲間を見つけ、問題に向き合い、日々必死に苦闘しながら生きているのである。

世のなかが変化するときというのは、まさにそういった「問題」が次々と噴出してくる。今までは曖昧なまま棚上げし、

私には関係ない

と無視できていたことが、どんどん眼の前に突き付けられてくる。そのとき、それまでの「多数派」は混乱し、狼狽するだろう。しかしそこでこそ、それまで見向きもされなかった「少数者」の見識が求められることになる。なにが問題であり、どのように変化するべきなのかを最も知っているのは、その問題と最も真摯に向かい合ってきたひとたちなのである。

たとえば現代の日本では、「サラリーマン」が最も多い勤労形態であり、食糧自給率は危機的なまでに低い状態にある。それでも「都会生活者」が増える一方で、地方はますます過疎化していこうとしている。しかし、この状態を放置して、いつまでもなんとかなるはずがない。これは冷静に見てみれば、誰の眼にも明らかなことなのだ。だが、いざ「そのとき」がやってきたとき、それまでの「多数派」や「勝ち組」や「権力者」たちに期待できる可能性は、限りなく低いのである。

「少数者」であることは決してしあわせなことではない。多数派からは理解されず、ときとして疎まれたり、蔑まれたりもする。問題を解決しようとしても、頼りになる「前例」も、豊富な「協力者」もない。葛藤し、苦しんで、そこにはまるで終わりがないようにすら思える。だが、そんなあなたの経験こそが、いずれ多くの他者を救うのである。

あなたがいなければ、あなたの声が、行動がなければ、世界は決して、変わらないのである。理解されないのは苦しいだろう。結果が出ないことに悩み、やめてしまいたくもなるだろう。だがそれでも、少しずつでいい。迷いながらでもいい。できることを続けていってほしい。これからの未来を創るのは、まさにそんなあなたの実践なのである。そして、長い眼で見れば、最後に残るのは必ずより喜びの大きなものなのだ。今の少数派が、100年後の多数派になっていることなどなんら珍しくはない。そのとき私たちは、

世界が変わった

と言うのである。もし100年後に生きるひとびとが過去を振り返って、

ちょうど100年前くらいからだよ、新しい時代の流れが生まれたのはね

などと言っていることを想像してみてほしい。そのとき、私たちの名前などどこにも遺っていないだろう。だが、そのとき私たちはきっと、誰よりも穏やかで、そして少し誇らしげな顔で、笑っていられるのである。