「感謝する」という行為には複雑な側面があることにやっと気がついた

「感謝する」という行為ほど、ひとびとに賞賛されているものはない。感謝するということは、

それまで当たり前だと思っていたことの価値に気づいた

ということだ。これは

ちいさなことにも喜びを感じることができた

ということでもあり、こうなると生きることがより楽しくなってくる。つまり、感謝できるようになったということは、それだけ自分が成長したことの証だとも言える。また、自分が誰かに感謝されたときも、ひとは喜びを感じる。自分がどんなに努力し、他者に尽くしていると思っていても、相手からなんの反応もなければ虚しくなってしまう。自分の行為に価値があることを認められれば、誰でも嬉しい。だから感謝はするほうもされるほうも嬉しい、誰にとっても善い行為だと思える。

私もずっと、このような考えかたを信じて疑わなかった。だから私もただ心で想っているだけでなく、折に触れて相手に感謝を伝えるように心掛けてきたし、ちいさなことに感謝できる謙虚さを失いたくないと思っていた。だが私は一方で、自分の心のどこかに、このほぼ無条件の「感謝礼賛」に対しての「違和感」があることに気づいていた。そんな違和感を覚える自分が歪んでいるのだろうかと私は内心少し悩んでもいたのだが、最近ようやくその原因を見つけ出すことができたかもしれない。「感謝する」という行為には決して一筋縄では行かない複雑な側面があることに、私はやっと、気がついたのである。

先ほど私は、

感謝するということは、それまで当たり前だと思っていたことの価値に気づいたということだ

と言った。しかしそこからさらに進んで

では、なぜそのことに気づくのだろう?それは、「それを持っていない他者の存在を意識したから」ではないのか?つまり、「感謝」の背後には「他者との比較」が潜んでいるのではないだろうか?

この問いに気づき、向かい合ったとき、私にとっての感謝の意味が、大きく変わり始めたのである。

 

具体例で考えてみよう。

生きていることに感謝しなさい

というひとがいる。確かに、生きていることは素晴らしい。決して「当たり前」ではない。しかし、なぜそのことに気づいたのかと言えば、死にゆく他者の存在を意識したからではないのだろうか?

あるいは

健康でいられることに感謝します

というひとがいる。確かに、健康でいられることは素晴らしい。しかし、なぜそのことに気づいたのかといえば、病に苦しむ他者の存在を意識したからではないのだろうか?

つまりさらに核心に迫って言えば、このような感謝の背景には、

死にたくない

病で苦しみたくはない

といった「恐怖心」や

あれが自分でなくてよかった

という「優越感」がどこかに潜んでいるとは、考えられないだろうか?

もちろん、日常的に私たちが感謝を表現するときに、そんな「恐怖心」や「優越感」を意識することなどほとんどないだろう。だが、私自身が自分の心と向きあったとき、私は自分の胸のうちのどこかにそれが潜んでいることに、そしてそれが長年の「感謝に対する違和感」を生み出していたことに、今さらながら気づいてしまったのである。

今日も食べものがあり、生き延びられてありがたい

と感じるとき、私は心のどこかで、飢えて死んでいく方々を意識している。

こんな私を愛してくれてありがとう

と言うとき、私は心のどこかで、誰にも愛されず、孤独に苦しんでいる方々を意識している。そしてどこかでこうも思っている。

あのひとと私の間には、本質的になんの違いもない。だが私はあのひとではない。それがありがたい。私ならあのひとのような境遇には耐えられそうもない

これは逆にこう考えてみてもいい。

日本人に生まれさせてくれてありがとうございます

これならまだおかしく感じないかもしれない。では、

男に生まれてよかった〜

あるいは

白人最高!

ならどうだろう? これらもすべて「感謝」を示していると言える。日本人であることに、男であることに、白人であることに。しかしこれを外国人に、女性に、黒人に言うことはできるだろうか? もし言えないとしたらその理由はなんだろうか?これが私があなたにも考えてほしいことなのである。

ここで私が思い出したのは、先賢が伝えてきた

「思慮分別(好悪分別)を離れる」

という知恵である。思慮分別を離れたひとを聖者とするならば、それはどんなひとなのだろうか?思うに彼らは、感謝などしないのではないだろうか?これはもちろん彼らが傲慢だからではない。つまり彼らはなにに対しても感謝しないかもしれないが、どんな状況に不平や文句を言うこともまた、決してしないのではないかと思うのだ。だとしたらそれこそが、「ありのままに受け取る」ということの意味であり、それができればそれがすなわちひとつの「悟り」(差取り=差を取り去ること)なのである。

 

たとえば、

生かしてくださってありがとうございます

と言うのは決して悪いことではないだろう。だが、それを常に言い続けてみたところで、私はいずれ死ぬ。そのときもし私が、

なぜ私が死ななければならないのですか!

などと言ったとしたら、私はなにもわかっていなかったということなのである。それに、今このときにも、実際に死んでいくひとがたくさんいる。では、生き残った私たちはしあわせで、死んでいった彼らは不幸なのか?あるいは健康で長生きするひとは<神>に愛されていて、病に倒れ夭折していくひとは呪われているのだろうか?もしそう考えるなら、その心こそが傲慢以外のなにものでもないのである。

真実を理解すれば、(肉体を保って)生きるひとは肉体界で果たす役割があるということであり、死んだひと(霊存在になったひと)は霊界で果たす役割があるということなのだとわかる。ならばそこには上下関係も優劣もないし、若くして死んだひとは不運だったわけでも、<神>に愛されていなかったわけでも決してない。むしろ見かたを換えてみれば、

死とは「今生からの卒業」であり、「新たな世界への旅立ち」だ

とも言える。だからこそ逆に

まだ「卒業」できずに生きている(生きていなければいけない)私たちは、まだ今生で学ぶべき「課題」を終わらせていないということだ

とも言えるということなのである。

私たちの置かれている状況はそれぞれに異なる。ただ私たちにできることは、与えられたものを活かし、選択し、できる限りの喜びを見出しながら生きていくことだけだ。そしてもし、食事を楽しみながら、一方で飢えて死にゆくひとびとのことを思うなら、そこで自分を責める必要はなく、ただすべてのひとが必要な食べものを得られる世界を実現させるために自分ができることを考え、それを少しずつでも行動に移していけばいいのである。

 

さて、このような考えに至った私は、これからどのように生きていくことにしようか?すべての感謝を否定し、与えられるものをただ淡々と受け取って、飄々としていけばいいのだろうか?いや、そのような生きかたは、少なくとも私にはできそうもないし、したいとも思わない。それに私は、やはり感謝という行為には素晴らしい面もたくさんあると思っている。ただ、それでも今回私が確実に言えるようになったのは、

感謝とは、誰かに強制されてやるべきことでも、無理にひねり出してすべきことでもない

ということなのだ。真の感謝とは、意識してするものではなく、自然と沸き上がってくるものだから。それは魂を震わせる。だからこそ私たちは、深い感謝に包まれたとき、そこに言葉はなくても、自然と涙を流すのである。

 

私は決して富豪ではない。それほど健康ですらない。だが、それに文句を言うのはやめにしようと思う。逆にもし私がこの先大金を手にしたり、信じられないほど頑健なからだを手にしたりしたとしても、決して驕らないようにしよう。生きているときはこちらでできることをして、死んだら向こうでできることをすることにしよう。私が誰かの役に立てたら素直に喜ぼう。しかし、必要以上に誇ることもしないでいよう。

だが私はやはり、聖者にはなれそうもない。私はあなたとのつながりを大切なものだと感じている。離れていくことを止めることはできないが、もし私と関わってくれるなら嬉しく思う。だからいろいろなことを考えてみて、自分自身のなかにあった違和感とも向かい合ったうえで、私があなたに言いたいことはこれだけだ。

本当に、ありがとうございます。

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