私たちを追い詰める「最凶の病」とは、いったいなんなのか?

掛け算を理解するにはまず足し算を理解する必要がある。逆に、掛け算を理解しているひとは足し算を理解しているとも言える。ただし、それが原理を理解していないただの「丸暗記」である場合は別だ。足し算を理解していないこどもでも、呪文のように掛け算九九を暗記することはできるかもしれない。だが、そのこどもが掛け算の原理を理解したわけでないのは明らかである。

大きな問題に手を付けるときには、まずそれを小さな要素に分解して、できるところから始めるのが鉄則である。最も大きくて目立つ問題に取り組むのも刺激的かもしれないが、その前にまずは小さな問題を確実に解決することが先決だ。それが意外に大きな問題の出発点になっていることもある。重要なのは流れ落ちる血を拭くことではない。根本の出血を止めることである。

現代社会には様々な「病」が蔓延している。原因不明で治療法が確立されていない難病も数多い。ひとは認知症に怯え、がんに恐怖し、脳卒中の不安を抱えながら生きている。それだけでなく、私たちは日々新たな病の脅威にさらされている。エボラ出血熱に慄き、デング熱に震え、その不安はとどまるところを知らないかのようだ。そして私たちは「遺伝子解析」などに期待を寄せてはみるものの、その生命の神秘を解明するまでの道のりは、果てしなく遠い。

そんななかで私たちは、ときに「新薬」や「画期的治療法」の開発に成功し、かつては「不治の病」と見なされていたものを克服することもある。そのときひとは「科学の勝利」に酔いしれるかもしれないし、歓喜の涙を流すかもしれない。それは確かに素晴らしいことだ。しかし大局的に見れば、病と人類との闘いに終わりが来ることはないし、今のままの態度を続けるなら、人類がいずれ未知の病に滅ぼされても、まったく不思議はないのである。なぜなら最も多くの病の原因のひとつである「ウイルス」(細菌)は「集団性」を基礎として動いているので、それぞれの個体の生死はそれほど大きな問題ではない。99%の個体が滅びたとしても1%が生き残れば、それがまた従来以上の耐性を持つものに変化し、爆発的に繁殖することができる。人類がどれほど強力なワクチンを開発したとしても、すべての個体を完全に死滅させない限り、それはいずれさらに強力なかたちで、何度でも私たちを脅かすのである。その「生命力」において、人類はウイルスの足元にも及ばない。それにもともと99%の死滅を覚悟している相手に、私たちが敵うわけなどないのである。

それに人類は、「開発」の名目でそれまでは「秘境」として護られていた場所に次々と進出し、環境を激変させている。これが今までは違う環境で共存することができていた「未知のウイルス」との出会いを引き起こす。そしてそれは「グローバル社会」の風に乗り、瞬く間に世界中に拡散する。このような事態が今後増えることはあっても、減る見込みは限りなく薄い。新薬の開発に10年以上の歳月を要する人類のスピードでは、根本的にまったく太刀打ちできないのである。

私は人類の将来に絶望したいわけではない。ただ今のような態度で臨む限り、人類が真の飛躍を遂げ、喜び多い未来を築いていくことはほぼできないということを言いたいだけだ。確かに難病の治療法を探ることにも意義はある。しかしここで少し視点を変えてみれば、私たちは既に原因を把握しているのにも関わらず、毎日のようにひとびとを殺し続けている「最凶の病」を放置しているということに気付かないだろうか?その「最凶の病」こそ、「飢餓」と「自殺」なのである。

なぜ認知症を発症するのかは解明できていなくても、なぜ飢餓でひとが死ぬのかは誰もが知っている。「食糧が充分に食べられないから」だ。なぜひとは自殺するのか? この答えも既に明らかだ。「生きることが楽しくない、喜びと感じられないから」人生を自ら投げ出すのである。だとしたら、食糧生産を最優先すれば、あるいは生きることが楽しくなるような仕組みの構築に知恵を絞れば、それは結果として何億人ものいのちを救えるのである。なぜ、遺伝子研究や量子力学などで最先端の謎に迫るのにはこれほど意欲的な人類が、自殺や飢餓の問題には一向に全力を尽くそうとしないのだろう?おかしいとは思わないだろうか?

あるいは私たちの罹る病のなかには、生活習慣を意識的に律すればかなりの確率で防げるものがある。まさに「生活習慣病」がそれである。たとえば近年ますます患者数が増えているとされる「糖尿病」は、日本での患者のほとんどが、生活習慣に強く影響された結果発症する「2型糖尿病」である(先天的なものを含む「1型糖尿病」などは生活習慣病ではない)。それは暴飲暴食や美食に偏った食生活によって引き起こされていると言ってほぼ間違いないものだ。だから先進国ほど2型糖尿病の患者の割合が増える傾向にある。世界には飢えに苦しむひとびとが多くいるのにも関わらず、抑制の外れた食習慣により引き起こされる「2型糖尿病」が増え、その結果医療費が増大して、他の用途に回すことができるはずのカネまでも奪っていっているのである。

また、私たちが自然災害に恐怖し、地球に恨み言さえ言っている陰で、年間100万人ものひとびとが自殺し、その数十倍の自殺未遂者がいることは、まだほとんど見向きもされていないかのようだ。この「100万人」という数は殺人の被害者と戦争による死者の数の合計を上回る。自殺はあの東日本大震災すら比較にならないほど巨大な「人災」なのである。だが私たちは「国土強靭化」には賛成しても、「社会強靭化」にそれほど関心があるようには見えない。

これらの事実を真摯に受け止めてみれば、私たちの社会がどこかおかしいとは感じないだろうか? もはや狂っていると糾弾されても反論の余地はない。戦争をやめられず、自殺と飢餓を解決できないでいる私たちがどんなに高度な科学技術を開発しようが「夢の万能薬」を追い求めようが、そこに未来が拓かれることはあり得ない。それは、足し算のできないひとに積分ができないのと同じくらい、明白なことなのである。

「原因がわかっているのに解決できないでいる問題がある」

ということが示している事態はとても深刻だ。だが、大切なのはそれを認識し、強い意志を持つことだ。実際、戦争が終わらないのも、自殺者を無くせないのも、生活習慣病を根絶できないのも、その根本にあるものは同じだ。

「真剣になっていない」

のである。だが、いよいよ先延ばしにできる猶予はなくなってきている。私たちが本気になるのと私たちが自滅するのとどちらが早いかの問題になりつつあるのである。私はもう手をこまねいているつもりはない。だが私だけでは力不足なのも間違いない。ただどちらにしても、その結果が出るのに私たちの孫の代を待つ必要は、きっとないだろう。私たちが50年後、あるいはもっと近い将来に、飢えで絶滅しているのか、または自然と調和して生きているのかを決めるのは<神>ではない。私たち自身なのである。