バタマリバ族。笑顔で互いを鞭で打ち合う成人儀礼を見て私が感じたこと

西アフリカトーゴの北東部にある「クタマク」と呼ばれる地域に、「バタマリバ族」と呼ばれる少数民族がいるという。私は今までこのひとびとのことをまったく知らなかったし、これからもアフリカに行くことはきっとないだろう。だが私は先日たまたま、メディアでこの「バタマリバ族」の特集を見ることができた。

彼らの住む地域は世界遺産に指定されているのだが、彼らはその伝統的な暮らしと景観だけでなく、その「我慢強さ」でも知られているというのである。

社会集団にはそれぞれの「通過儀礼」というものがある。日本で言えばたとえば「七五三」や「成人式」というのがそれだ。現在の日本ではそれが形骸化してしまっているようにも思えるが、特にその集団における「こども」と「大人」を分ける儀式は大きな意味を持っていると言える。それによって、彼らは自身の成長を示すとともに、「1人前の大人」として周囲を支える存在になれるかを問われているからである。

バタマリバ族が「我慢強い民族」と言われるのは、彼らの「成人儀礼」が

「笑顔で互いを鞭で打ち合う」

というものだからである。その際彼らは裸でこそないものの、防具などを身に付けるわけではない。だから、相手に打たれれば痛いし、腫れることや傷つくこともざらにある。かと言って自分も相手も、遊びのように手を抜くわけではない。だから普通であれば痛いし、怖いし、顔が引きつってしまうようなことを、笑顔でこなさなければならないのである。それができてこそ「大人」だというわけだ。

あなたはこの儀式を「野蛮」だと思うだろうか? 私も最初は

なぜわざわざ傷つけ合い、痛いことをするのだろうか こんなことに耐えられることが「大人」だと言うのなら、私は決して大人にはなれないだろうなぁ……

などと考えていた。私が見た番組では、日本人がその儀式を体験していたのだが、実際彼の表情は強張り、明らかな緊張と恐怖を示していた。だがそんな彼にバタマリバ族の長は、「笑顔だ、笑顔だよ」と「笑顔で」平然と言ってのける。するとそうやって何度も励まされているうちに、最初は怖がっていた日本人の彼もついにその儀式を笑顔でやり遂げ、周囲に「大人」として認められるまでに至ったのである。周囲は彼を心から祝福し、彼の表情もまた、晴れやかなものになっていた。

私はこれを見て、この儀式に対する当初の見立てを改めた。というより、この儀式の「核心」にあるものがなんなのか、自分なりの答えを見出すことができたのである。なぜ、バタマリバ族は互いに「痛み」を与え合うのか? なぜ、それを「笑顔で」乗り越えようとするのか? そしてなぜ、それができるかどうかで「大人」かどうかを見極めるのか? 私にはそこに、バタマリバ族の「人生の智慧」を垣間見たのである。

人生はときとして、私たちが想像もしない展開を見せる。それが喜びである場合もあるが、苦しみとしか感じられないものであることも多い。たとえば突然の解雇、人間関係の不調、不意の病、予想もしない天変地異……。こうしたことはいつ誰に起きたとしてもおかしくはない。もちろん、あなたにも、私にもだ。そしてそのとき、私たちは自らの心を問われることになる。挫折によって心を折られ、気力を失って塞ぎこんでしまうひともいる。あるいは、周囲に僻みを抱いたり、攻撃的になったりするひともいる。自らいのちを断つひともいる。そこで希望を失わず、新たな未来を思い描き歩み出すことは決して簡単ではない。しかし、だからこそそれができるのが、混沌のなかで周りを支え導く、真の「大人」の証なのではないだろうか?

眼を背けたくなるような出来事や事実というものがある。それは見ようと見まいと、日々起こっている現実だ。そのような「苦しみ」に対して、そこから目...

このように考えたとき、バタマリバ族の儀式にはこれからの時代を生き抜く神髄が、端的に表現されていると感じられたのである。彼らも苦しみは避けたいだろう。だが、私たちに人生のすべてを管理することができないのは明らかだ。だとしたら、せめてそれを笑って乗り越えよう。仲間を信じ、なにより自分自身を信じて。それができたら、そのひとを「大人」と呼ばないひとは、どこにもいないだろう。

私は日本社会では一応<大人>だとされている。だが、真の意味で「大人」になったのかと言えば、まだ自信はない。まだまだ日常のささいな困難に狼狽し、周囲の想念に影響され、将来の不安が脳裏をよぎる。しかし、肉体の成長は思うようにならないが、精神の成長はそのひと次第なのである。今回私はバタマリバ族から自分なりに多くを学ばさせられた。こどものとき周囲の<大人>に憧れていたのとはまた違う意味で、私は

早く大人になりたい

と、改めて強く感じたのである。