都市に人口を集中させることには、ある致命的な弱点が存在する

日本は現在「超高齢化社会」に突入していて、経済的・精神的な理由から、出生率も恒常的に低いままである。つまりこれは、長期的に見て日本の人口が減少していくことを示している。そしてさらに、日本は世界でも最高水準の借金にまみれていて、カネに余裕がない。こんな状況にあって、未来を思い描き、政策を実行しようとする政治家のなかには、「都市生活者を増やし、都会の生活基盤を向上させることを最優先していく」という考えかたを持つひとびとも出てきている。「コンパクトシティ」構想もその一例であると言える。つまり、限られたカネとエネルギーのなかで、すべての場所に広く均一な発展を望むことはもはや不可能であり、都会を中心とした「極」にそれを集中させることによって、生き残りを図ろうというのである。

実際どんなに「地方創生」などと謳ってみたところで、地方の過疎化の流れはそう簡単に止められるものではない。なぜなら資本主義においては生きるのにカネが必要なのだが、地方にはそもそも「仕事」が少ない。だから、ひとびとは仕事を求めて都会に出ていく。そして、ひとが集まったところには新たな「需要」が生まれ、そこに「産業」が成り立つ。そうしてまた新しい「仕事」が生まれ、「カネ」と「ひと」はますます都会に集まるようになる。高度経済成長期における「集団就職」などは、まさにこの典型例である。いちど生まれた流れはそう簡単に反転しない。そこに為政者の意志があるならなおさらだ。だから実際に、地方が過疎化に喘ぐ一方で、都会にはリニアモーターカーが計画される。東京でオリンピックが開催される一方で、被災地の復興は未だ道半ばなのである。

だが、そこにどんな思惑があるにせよ、都市に人口を集中させることには、ある致命的な弱点が存在する。そこに目を向けない限り、日本は確実に行き詰まることになるのだが、あなたはそれに、気付いているだろうか?

「ピラミッド」を思い浮かべてほしい。これはときとして「階級社会」をイメージさせる負の側面もあるが、それは見かたを変えると重大な事実を示唆している。それは、「地から離れたひとびとを支えるには、その何倍ものひとびとの存在が不可欠である」ということである。これはなにもひとに限ったことではない。自然界で「生産者」と呼ばれるのは植物だが、植物の数よりも草食動物の数が多くなれば、過剰な草食動物は生きていけなくなる。あるいは肉食動物の数が草食動物の数を上回れば、肉食動物はその数を維持できない。エネルギーが不足するからである。正確な数字ではないが、単純に言えば、「植物:草食動物:肉食動物」の比率が「5:3:2」であればいいが、逆に「2:3:5」になればその生態系がいずれ破綻するのは目に見えているということだ。

では、これをひとに当てはめるとどうだろう?私たちはこのような問題を考えるとき、よく産業を3つに大別してみる。「第1次産業」とは農業や漁業などを指し、「第2次産業」とは製造業や建設業などを指す。そして「第3次産業」とは、それ以外のサービス業や小売業などを広く含む概念である。だから大まかに言ってしまえば、その数字が大きくなるほど「生きる」という本源的なものから離れていくということである。そして一般的に先進国になればなるほど第3次産業が増え、第1次産業は減っていく。もちろん、日本もその例外ではない。

しかし、このなかでなにが最も根源的で重要なものかと言えば、それは間違いなく第1次産業である。食べものがないときに「サービス」もなにもあったものではない。では、なぜ日本の暮らしが成り立っているのかといえば、それは食べものも、エネルギーも、その他様々な第1次的なものを、他者から提供してもらっているからだ。だから、こんなにも食糧自給率が低いこの国が、オリンピックを開催する余裕があるのである(「本当に」そんな余裕があるかは別であるが)。

そして都会に人口を集中させる最大の問題点は、まさにこの点にあるのだ。都会にひとを集めるということは、ますます「大地から離れた」ひとびとを増やすということだ。それが成り立つためには、誰かが私たちの代わりに食糧を生産し、エネルギーを生み出し、それを私たちに分け与えてくれる環境がなければいけない。だが、ひとたびそれが崩れれば、私たちはたちまち破滅的な混乱に陥るのである。自分の畑で採れた野菜を収穫するのに比べ、外国で採れた野菜を食べるためにははるかに多くの条件が揃わなければならない。まず、相手に私たちにそれを提供する意志があり、そことの物流経路が確保されていて、それが届くまでの間こちらが待つことができる余裕がなければいけない。このどれかひとつの前提が崩れただけでも破綻が待っている。

近年ではこのような問題意識もあって「フード・マイレージ」の概念が提唱されるようになってきているが、都市生活を推進するということは、まさにこのフード・マイレージの抱えるリスクをますます高めることを意味するのである。そのリスクを低減させるためには、自分たちに必要なものはできるだけ自分たちで賄うということになるのだが、乱立する高層ビル群と農園の共存は困難である。ならばせめて自分たちに必要なものを提供してくれる方々との良好な関係を築くのが絶対条件なのだが、私たち日本人の「外交力」は今も危機的なまでに低いままである。それに、世界的な潮流は「人口爆発」にあり、当然食糧もエネルギーも不足していくことは明らかだ。今は日本に食糧を提供してくれる国々も、もし自分たち自身にそれが不足するようになったとしたら、自分のことをさておいて私たちに分け与えてなどくれるだろうか?

こうしたことを私たちは真剣に考える必要があるのではないかと、私は常に考えている。真の「国力」とは危機が起きても生き延びられる「食糧」と「エネルギー」である。日本の先人がなぜ土地を「石高」で数えたのか、その意味をもういちど考えてみてほしい。そして、自分たちだけでは対処できない問題もあるからこそ、「外交力」が重要なのだ。事態が緊迫すればするほど、集団は閉鎖的で排他的になりやすい。その傾向はすでに世界中に見え隠れしつつある。だからこそ、普段からの友好関係の積み重ねが必要なのだ。私たちがODA(政府開発援助)に力を注いできたのは、「世界の友」を増やすためだったはずではないのだろうか?真の「国防力」とはそういったものだということを、あなたにももういちど、思い出してほしいのである。

私はなにもすべてのひとが農家になることを促しているわけではない。私自身、もはやそんな体力が残されていないのはいつも書いている通りだし、ひとそれぞれ得意なことは違うものだ。農家と詩人との間に、本質的な優劣などない。ただ、自分の置かれている環境がどうなっているのかを冷静に考えたとき、これ以上「大地から離れる」ことが理に適っているとは私にはとても思えない。ひとはみな輝きを求めて光のもとに飛び去っていってしまったが、闇に根を張る存在がいなくなれば私たちはみな滅びてしまうのである。私はまだ、手遅れだとは思っていない。時間は差し迫ってきているかもしれないが、慌てふためくことはない。私たちが真摯に現実を受け止め行動すれば、私たちの未来はきっと、喜びあるものにできるのである。