消費することと投資することは、本質的にはほとんど同じである

私たちは資本主義社会のなかで、あらゆるものを「消費して」生きている。だから私たちは「消費者」と呼ばれもする。対する販売者は私たちの購買意欲を刺激するためにあらゆる努力を惜しまないが、やはりそれは「小手先」の手段にすぎない。より根源的には、競合相手より少しでも優れたものを提供することが王道だと言える。消費者は長期的には、より優れたものを取捨選択する能力を持っていると考えられるからだ。

ただ一方で、もしあなたに独創的で革新的な発想があるとしても、資本主義社会ではカネがなければそれを世に出すことも難しい。だがもしあなたが自分のアイディアに自信を持っているのなら、あなたは必ずしもそこで諦める必要はない。あなたのアイディアに「力」を与えてくれる存在、「投資家」を探せばいいのである。

投資家には様々な思惑を持ったひとがいるのも確かだが、自分の資金を世に役立てたいと思っているひとも間違いなく存在する。さらに言えば、たとえ投資家の主眼が最終的には「自己利益」にあるのだとしても、あなたに協力さえしてくれるのであれば、あなたはその力を得て自分のアイディアを実現させることができる。

ただ、ここで問題なのは、あなたと同じようになんらかのアイディアを持ちながら資金だけがなく、投資家に協力を求めているひとは既にたくさんいるということだ。それに投資家も愚かではないのだから、提示される玉石混淆のアイディアのなかから、自分が真に共感し、失敗することも覚悟のうえで資金を投じる対象を見極めようとしているだ。そして彼らも長期的には、より優れたものを取捨選択する能力を持っていると考えられるのである。

私たちは普段自分を「消費者」として意識することはあるかもしれないが、「投資家」として意識することは少ないかもしれない。「投資」とは一部の大富豪が行うものであり、自分には関係がないと感じているかもしれない。しかしここで気付いてほしいことは、「消費者」も「投資家」も資本主義社会で大きな力を持っているというだけでなく、本質的にはほとんど同じだとさえ、言えるということなのである。

資本主義社会では、消費者に選ばれなければそれは淘汰され、消えていってしまう。先ほど「私は消費者は長期的には、より優れたものを取捨選択する能力を持っている」と書いたが、実はそれは少し楽観的かもしれない部分がある。なぜなら、販売者の「スタートライン」は平等ではないからだ。大企業は多額の資金力を持って、大々的に宣伝することができるだけでなく、ときには自分の長所や競合相手の短所を過大に強調して、優位に立つことすら可能だからである。だからもしかしたら、より優れたものがあっても、より「力」を持った目立つものに抑えつけられて、埋もれて消えていくこともあるかもしれないのだ。

だからこそ、ここで私たちの眼が問われるのである。私たちは小手先の技巧や宣伝に惑わされず、真に優れたものを見極めることを求められているのだ。言い換えると、あなたが自分が共感できるものを購入し、利用していけば、それはその販売者や産業を保護することと同じなのである。これはまさに、投資家に求められる資質と同じでもある。

こうした視点から考えると、たとえばあなたが日本の食糧自給率の低さに危機感を持っているなら、国産のものを選んで購入すればいい。たとえあなたが農家になることはできなくても、それは結果的に日本の農業を護ることにつながるのである。あるいはあなたが農薬が環境に与える影響を危惧しているのなら、日常的に無農薬の食べものを選ぶように努めればいい。それで間接的に、無農薬栽培の農家を護ることができるのである。確かに、そうしたものは安価な大量生産品に比べて効果になっていることが多いのも確かだ。だが、それはそれだけの手間と労力が掛けられているからでもある。もし誰もが安く手軽に手に入るものだけを選び続けるなら、いずれ本当に優れたものを受け継ぐひとがいなくなり、消滅してしまうかもしれない。そんなものは「割が合わない」からである。だからこそ、あるものを「消費する」ということはその「未来を護り育てる」ことと同じだということを理解してほしいのである。そしてそうしたことの積み重ねこそが、より喜び多い未来を創造していくのだ。

「あなたがなにを選ぶか」ということは、「自己表現」であると同時に「世界創造」でもあるのである。実際には私も資金量の制約などがあるので、今私が心から望むものばかりを選ぶことができているとは言えない。優先順位も付ける必要がある。だが私も基本的には、本当に自分が好ましく思えるものとともに生きていたい。それがなんであれ、愛着があるからこそひとはそれを大切にできる。いたわることができる。そしてそれは私にとって、自分のうちにある愛情と、未来への希望の、確かな証なのである。