株式市場は、必ずしもカネの亡者の巣窟とは限らない。未来の風を読む最先端でもある

あなたは、「株式市場」にどういったイメージを持っているだろうか?

そんな世界は自分とは関係ない

カネ持ちの賭博場

だなどと、否定的な印象を持っているひとも少なくないだろう。確かに、日経平均株価がどんなに上がろうと、

私たちの生活が善くなった

という実感が湧くかというとそれは別の話だ。むしろ、物価の高騰や税金の引き上げによって生活が困窮するひとびとが大勢いる一方で、富裕層は株価の上昇によってますます富を蓄積しているというように考えれば、それに辟易するのも自然なことだ。

だが、それでもなぜ資本主義社会では株式市場が重視されるのだろう?メディアは、なぜ日々の株価の動向を伝えるのだろう?それは、善くも悪くも株式市場が

「『資本主義の最先端』にあるから」

だと言える。だから、そこでは「カネこそすべて」の理念が最大限に純化されて表現されてもいる。そこは非情で冷酷な場であり、競争原理と欲望が渦巻いている。しかし、逆に言えばカネさえ持っていればそれ以外はなにも問われない。国籍も、性別も、年齢も、資金の出処さえ関係がない。だから、「レバレッジ」という飾られた言葉を隠れ蓑に、借金して株式を取引するひとさえも後を絶たないのである。

こうしてみると、確かに株式市場は「現代で最高の修羅場」であるとも言える。生半可な覚悟で踏み込んでも大ケガをするだけだ。それなら、否定的なイメージを持って近付かないくらいがちょうどいいかもしれない。だが、それでも実のところ、株式市場は、必ずしもカネの亡者の巣窟とは限らない。「未来の風を読む最先端」でもあるのだ。血眼で一喜一憂するひとびとを尻目に、少し違った目線から株式市場を眺めてみれば、そこには多くの「発見」があり、ときとして未来への大きな希望さえ、見出すことができるのである。

現在のかたちがどんなに歪んだものであれ、それを正しく見るためにはその原点に立ち返らなければならない。そういった意味で「株式市場」とは本来、

「アイディアはあるが資金だけがないひとが、資金提供者を募る場所」

だと言える。そして「投資家」は他者を通して自分にとってもより望ましい未来の実現に寄与するとともに、投資先の事業が発展すればそれを配当金や優待制度、あるいは株式の価値の上昇によって金銭的利益を得ることもできる。だから、これが理想的に作用すれば、この仕組みは誰にとっても善い結果を生み出し得るものなのである。

とはいえ、投資家も自分にとって貴重な資金を投じる以上、投資先の動向には常に注意を払う。だから、もし投資先がカネを無造作に遣ったり、当初の事業計画を勝手に変更したり、財務状態を粉飾したりしたことがわかればすぐにでも資金を引き上げる。そうすると結果的に、優良な企業が残り、そうでないものは淘汰されていくのである。

だから、事業家はいったん他者から投資を受けた以上、善くも悪くも「結果」を求められる。そしてなにより「誠実さ」も重要になる。やるといったことをすぐに撤回したり、投資家を騙して価値のないものにカネを集めようとしても、それは決して長続きしない。結局は「自分の事業(アイディア)を通じて社会をより善くできる」という確信と情熱がなければ、過酷な資本主義社会で事業を継続することはできないのである。

さて、こうしたことを踏まえたうえで、私は株式市場が「現代で最高の修羅場」であると同時に「未来の風を読む最先端」でもあるとも言った。私が株式市場の苛酷さを知りながら、一方でそこに注目し続けている理由は、株式市場が「現代の縮図」であると同時に「アイディアの集積場」でもあるからなのである。

私たちが時代の変化に気付くのは、たいていは「それが身近に広まったとき」だ。だが、それが実現し、私たちの生活をより善くできるかどうかは別にして、株式市場には多くの「アイディア」が常に提示されている。実例を挙げてみれば、たとえば先日「古河電池株式会社」が発表した非常用マグネシウム空気電池「マグボックス」は、汚れた水や海水などからも発電できる新型の電池であるが、まだまだ一般には広まっていないように思える。

古河電池と凸版印刷、世界初、紙製容器でできた非常用マグネシウム空気電池を開発

もちろん、この電池にもまだまだ技術的課題はある。しかし、あなたが株式市場で自分の資金を投じているわけでない限り、あなたが電池の市場規模や、古河電池の現在の株価の妥当性を検証する必要はまったくない。それにもしかしたら、この電池もいずれは淘汰される運命にあるのかもしれない。だが、少なくとも私はこの情報に触れて、私たちには未来があることを、改めて確信したのである。

なぜかと言えば、私たちがなにか「アイディア」を閃くとき、そこには必ず霊存在も含めた他者の関与がある。

私たちは無意識にでも意識的にでも、日々いろいろなことを考えながら行動している。しかし、「私の考え」と言いながらも、その出処は実のところ明確で...

もし私たちがもはや滅びるしかないのだとしたら、なぜ私たちにそのような「閃き」が与えられるのだろう?確かに世界には様々な思惑が渦巻いているとはいえ、私たちがそういったアイディアを思いつくということは、少なくとも私たちの選択次第によっては、私たちがより喜び多い未来に生きられる可能性がまだ残されていることを意味しているのだと、私は考えているのである。

与えられた状況をどう読み解くかはそのひと次第だ。先に述べた通り、株式市場は「現代の縮図」でもある。デング熱の恐怖が広がるにつれその「関連株」に注目が集まったり、原発再稼働の動きが強まるとまたその「関連株」の株価が上昇したりする。それに最近では「ゲーム」や「リニアモーターカー」関連の会社の株式取引が活況なのを見て複雑な気持ちになることもある。だが、そうした動きを横目に見ながら、私は静かに「食品・エネルギー関連」や「水処理技術」の会社の動向を注視している。そこに資金を投じるかどうかは本質的にはさほど重要ではない。ただ、私は個人的にそのような業界に期待を寄せ、そこに携わる方々に願いを託しながら、私は私で今日も自分にできる役割を、果たしていこうと思っているのである。