「死ぬときは死ぬんだからしょうがないね。でも生きている限りは、やることは山ほどあるんだ!」と彼は言った

現代の多くのひとびとの(科学的)世界観では、地球上で人類ほど複雑なコミュニケーションができる生物はないとされている。他の生物もサインや発声による簡単な意思疎通はしているかもしれないが、それは私たち人類が「言葉」(言語)によって行っているものほど複雑ではないと考えられているうえ、そもそも他の生物は人類ほど発達した「脳」を持っていないのだから、高度な思考はできないものと見なされているのである。これは人類を「万物の霊長」とするひとつの理由にもなっていると言える。

だが実際には、私たち人類だけでなく、あらゆる生物(動植物・鉱物)にも「魂」(精神)が宿っている。だから、彼らにも「想い」があり、「思考」があるのである。そもそも、私たちと彼らの違いはただ現在宿っている「肉体」(=魂の器)にしかない。もちろんそのことによって得意不得意や生きかたの違いが現れるのも確かだが、「魂」(精神)という本質においては、私たちと彼らの間に優劣や上下関係があるわけではない。人類が地球上で最も優れた種族だというのは驕りでしかないのだ。それどころか、私たちがもし彼らの声に耳を傾ければ、そこからは確かに多くの叡智が、得られるのである。

もう数年前のことになるが、私が道を歩いていると、たまたま蟻の行列に出くわした。今回は直前で気がついたからいいものの、危うく無造作に蟻を踏み潰しかけた私は、この機会に蟻との対話を試み、こう訊いてみた。

もし私が気付かず歩いていたとしても、あなたは私に踏まれないように避けることができていたの?それに私だってわざわざ踏みつけたいとは思わないけれど、知らず知らずのうちに殺してしまっていたこともあると思う。それについて、あなたはどう思う?私を恨む?

すると彼(彼女かもしれない)は、

そりゃあわざと踏まれるのは嫌だけど、死ぬときは死ぬんだからしょうがないね。でも生きている限りは、やることは山ほどあるんだ!

と言ってさっさと立ち去ってしまったのである。

私はこの蟻の言葉に大きな衝撃を受けた。短い言葉のなかに、

「生きるときは生きる、死ぬときは死ぬ」

というこれ以上なく単純明快な態度が表現されていた。私がこれを「潔い」と感じることすら人間的な余計な観念なのではないかと思われるほど、これ以上なく当たり前のことだと言わんばかりだったのである。蟻は決して死に急いでいるわけでも生き急いでいるわけでもなかった。ただ、そこには余計な気負いがまるでなかったのだ。

死ぬ?だったらなんだって言うの?

こんな態度に接したことは、私に大きな自省を促すきっかけを与えてくれたのである。

あらゆる意味において、私たちが置かれている環境が現在「大変動期」にあるのはもう誰の眼にも明らかになりつつある。天変地異がこれから多くなることはあっても、少なくなる可能性は限りなく低い。私たちの社会体制の変動ももう容易には収まらない。私たち(特に先進国のひとびと)はこれから豊かになるよりも、貧しくなる覚悟をしなければならないのだろう。つまりここから言えることは、もし「時代の空気」に流されて生きてしまうなら、私たちを病みに誘う要因は、今後ますます増えていくということなのである。

だからこそ、私たちはより真摯に世界の状況に眼を向け、自分自身と向き合い、他者と寄り添って生きていく必要があるのだと私は思う。そしてそのヒントは、きっとそこここにあるはずだ。あとは、私たちがそれを発見するかどうかにかかっているのである。私も彼から多くを学んだ。私もやはり今すぐ死ぬのは哀しいが、いずれ死ぬときは死ぬ。でも生きている限りは、まだやる(やりたい)ことは山ほどある。だから、それをひとつひとつ、できるところまでやっていきたいと、そう思っているのである。