「参った」という言葉は、いったい誰に向けられているのか?

参ったなぁ〜

私たちの人生は一筋縄ではいかない。懸命に努力しても結果が付いて来なかったり、もう少しでうまく行きそうなところまで来たのに、予想外の事態が発生してすべてが暗礁に乗り上げてしまうようなこともある。そんなとき、私たちはときに苦笑いをしながら、またあるときは頭を抱えながら、

参ったなぁ〜

などと口にしてしまう。

しかし、これは考えてみれば少し不思議なことではないだろうか?「参った」という言葉には「降参する」という意味が込められている。だから、これがたとえば

あなたには参ったよ

というような状況であれば、

私はあなたに降参する

あなたには敵わない

ということを意味していると言える。だが、私たちがふと

参ったなぁ〜

と口にするとき、私たちはいったい誰に対して、その言葉を向けているのだろうか?私は実はそこにこそ、私たちが無意識に持つ「神」(はたらき)への意識が、隠れているような気がしているのである。

いつも書いているように、私たちのそれぞれの人生における「主体」(最終決定権)を持っているのは私たち自身だ。だから私たちは、自分の置かれた状況のなかで、そのとき自分にできることのなかから、自分にとって最も喜びが大きくなる行動を選択することで、自分の人生を創り、変えていくことができる。だが、私たちは自分ひとりで存在しているわけではないのだから、そこには他者の想いや思惑が影響する余地も多々ある。そしてそれが複雑に絡み合いながら、私たちの世界は存在し、変化し続けているのである。

そんななかでときには、自分の願いがことごとく実現し、やりたいことが自由にでき、予想以上の喜ばしい結果を生み出していくこともある。そんなとき私たちは

運がいい

波に乗っている

などと表現する。しかし反面、それが行き過ぎると

世界は私が動かしている

世界は私だけのためにある

などと思ってしまうこともある。それは冷静になれば「傲慢」でしかないのだが、自分がその渦中にいるときには、なかなかそれに気付くのは難しいものだ。

では私たちはいつそんな傲慢さを反省し、謙虚さを学ぶことができるのだろうか?それはやはり、事態が自分の思い通りには進まなくなり、どんなに努力したとしても、自分の力だけでは限界があることを思い知ったときなのではないかと思う。そしてそんなときにこそ、

参ったなぁ〜

という言葉が、私たちの口をついて出るのである。

このとき私たちは、意識的であれ無意識であれ、なんらかの「大きな力」の存在に対して「参っている」のである。それは「他者」と言ってもいいし、「世界」あるいは「運命」や「神」(はたらき)と言ってもいいだろう。これだけ科学が絶対的な権威を持ち、唯物論者も多くいる現代文明社会においても、私たちにはどこかに「人智を超えた存在」に対する畏敬の念が残されているのだと思う。そのひとつの証拠が、この

参ったなぁ〜

という言葉に表れているのではないかと思えるのである。

ただ以前にも

南無阿弥陀仏 という祈りは日本人には馴染み深いものである。この「南無」というのはわかりやすく言えば 委ねます(深...

と書いたことがあるが、「参った」という言葉にも「降参する・委ねる」という意味がある。だから私たちは、確かに自分以外にも大きな力があることを知り、謙虚さを学ぶことは重要なのだが、だからといってどんな相手にも

参った!

と言っていいわけではない。それは「主体」を失うことと紙一重でもあるからだ。だから具体的に言えば、決して「世間の権威」や「流行」、「カネ」や「一般的・普通」あるいは「みんな」などといったものに安易に参らないでほしい。あなたがそこに降伏してしまったら、新しい未来の芽が潰えてしまうことになる。または誰かが、あるいは自分自身が

あなたになんかなんの価値もない

などと言ってきても、決してそれに参らないでほしい。誰にもまだ価値が見つけられていないなら、なおさら自分自身がそれを見つけ出さなければならない。そしてそれは、誰にでも必ず、あるのである。

こうしたことも踏まえたうえで、私がもうひとつ思うことは、やはり人類は自然(地球・宇宙)に対してもう少し謙虚になったほうがいいのではないかということである。いつの間にか私たちは地球を「資源」と見なし、「尊ぶもの」ではなく「護るもの」、「管理するもの」と考えてしまいがちになってしまった。そして自らが「万物の霊長」であり、他の生物は「人類が管理するもの」であると見なしているように思える。だがこれこそが傲慢でなくて、いったいなんだというのだろう?

もしこれからも私たちがこの考えを改めないのなら、私たちにはいずれ大きな「教訓」が与えられることになるだろう。そして私たちは

参ったなぁ〜

と、改めて我が身を振り返るのではないだろうか?それにきっとそれは、もう既に始まりつつあるように見受けられるのである。「神」(はたらき)にだけは、どれほど降伏してもさして害はない。神(宇宙・地球……)は私たちを利用しないし、おだても貶しもしない。ひとひとりも蟻一匹も、「ひとつのいのち」としては同格の存在である。地球は人類のためにあるのではない。世界は私のためにあるのではない。だがそんな世界にいることで多くを学び、喜んで生きることもできる。哀しみを知り苦しみを越えたからこそ味わえるものもある。だからその意味で、世界はやはりあなたのためにあるのである。日々生きるのは決してラクなことばかりではないが、

参ったなぁ〜

と言いたくなっても決してすべてを諦めてしまうことだけはしないでほしい。失敗を経験し謙虚さを知り、それでもなおそこから這い上がったあなたの力こそが、これから必要とされるものなのだから。