人生は確かに貴重だが、必要以上に生き急いで病まないでほしい

人生を無駄にするな!

人生は3万日しかないんだ!

私たちはときどき、このように叱咤されることがある。このようなことはほとんどの場合自分より年長者のひとから、自戒を込めた強い口調で言われるものである。確かに、私たちの人生は長いようで短い。それに、どんなに「平均寿命」を当てにしてみたところで、自分自身があとどのくらい生きられるのかは本来未知である。だから、明日があるという前提で生きずに、一瞬一瞬に全身全霊を懸け、自分にとって最善の選択を積み重ねていくよう努力するという姿勢は、ひとつの「王道」であるとも言えるだろう。それを身に沁みて感じ、過ぎ去った日々が戻らないことを実感しているからこそ、年長者はいつも若者たちに言う。

人生を無駄にするな。遊んでばかりいないで、もっと大切なことをしなさい(見つけなさい)!

だが、冷静に現在の状況を見つめてみたとき、私は自身のなかに却って逆の感覚が芽生えてくることに気付いた。現代のひとびとは、本当に人生を無駄にして生きているのだろうか?いやむしろ、多くのひとびとが人生を「大事にし過ぎる」あまり、生き急いで病んでいるという考えることは、できないだろうか?

冒頭に挙げた「人生3万日」という表現は、現在の日本における平均寿命80年を念頭に置いたものだが、これは当然時代や地域によって大きな差異がある。とはいえ、ひとつ言えることは、人類の寿命は他の生物と比較すれば、明らかに長いということである。よく指摘されるのは、人類は自分自身の生殖能力がなくなる年齢に達してもなお、そこからさらに生き続けることができることに特徴があるということだ。これはひとの乳児が他の生物と比べて未熟な状態で生まれてくることもあり、子育てひとつとっても、個人やひとつの家族だけでなく、経験豊富な年長者も含めた「社会全体」(共同体全体)で行おうとする「社会性」によるものだとも説明される。しかしそこにどのような説明を付けるかは別にしても、人類の寿命は確かに長い。そして、私たちの生きかたに一定の「型」は存在しない。これは少なくともこの地球上で見たときの、私たち人類が持つ大きな特質であると言える。

寿命が長いから、私たちはその間に多くのことを経験することができる。現在の私たちの感覚では、20歳未満で亡くなった方々を「早すぎる死」として捉え、ひとによっては

前世の悪行の報いだ

などと言うような意見も出てくることがあるが、これですらたとえば犬や猫の寿命と比較すれば明らかに長い。そして、生きかたに一定の型が存在しないからこそ、私たちは自分たちの生きかたを環境に適応させ、自身で選択することによってそれぞれの「文化」を生み出してきた。しかし、そういった身近な共同体の「伝統」や「慣習」すら、私たちを完全には縛らない。まったくしがらみがないとは言わないが、それでも原則的には、私たちは自分の人生を「自分の意志で」決定する力を持っているのである。

ただ、自分の決定が独特のものであるほど、その結果は予想できないものになる。それに実際のところ、自分と同じひとはどこにもいないのだから、周囲のひとびとにとっての「無難な選択」が、自分にとってのしあわせにつながるものなのかどうかは、誰にもわからない。だから私たちは、いつかどこかで必ず、「予想外の事態」に直面し、「失敗」を経験することになる。これは私たちが「自由」であり、「長い人生」を歩まなければいけない以上、避けられないことである。

だが、だからこそ、私たちには「長い人生」が与えられているのではないだろうか?「失敗」を活かし、新たな「経験」に昇華させることは、私たちが「長い人生」を歩むからこそできることなのである。さらに言えば、私たちはこの生が終わったとしても、また何度も生まれ変わることができる。だから、究極の意味において、「無駄なこと」など、なにもないのである。

つまりここで私が主張したいのは、私たちの人生には「失敗」や「挫折」が前提としてあり、それを活かし「復活」して生きていくことができるためにこそ、「長い人生」があるということなのだ。人生は確かに短い。なにをするのが正しいのかもわからない。気付けばあっと言う間に過ぎ去っていくように感じる。だがそれでも、私たちの人生は、多少の回り道や失敗が許される程度には、長いはずなのである。

翻って現代を生きるひとびと、特に「若者」と呼ばれる世代のひとたちを見るとき、私は決して彼らが人生を大切にしていないとは言えないことに気付く。というよりむしろ、多くのひとびとは「人生を大事にしすぎている」のではないかとさえ、私には思えるのである。人生を大事にし過ぎているから、たったいちどの挫折や失敗が、自分にとって「致命的」だと考えてしまう。だから組織に就職できなければ人生に絶望し、恋人に去られれば生きる価値を見失う。そんなひとたちはそもそも自分たちを「若者」とは見なしていないのかもしれない。「若者」とは相対的に「未来が長い」と考えているから生まれる呼称だが、彼らにとって「輝かしい未来」など、自分たちの掌にあるものではないからである。

これは結局、資本主義や競争主義が生み出した、

ときは金なり

という発想から来ているとも言える。だから、現代では「睡眠時間」すら削られるような風潮もある。いかに短い時間でからだを回復させるかが勝負であり、

寝ている時間がもったいない!

というのである。競争が苛烈になればなるほど、私たちは「負け組」になる恐怖を煽られ、神経を磨り減らし、いかに「効率的に生きるか」を問われる。そして安全地帯はさらに狭まり、いちど踏み外したら最後、奈落の底に転落し、「再起不能」に陥るのである。意識的にしろ無意識的にしろ、私たちはだんだんとそのような思想を植え付けられ、その結果実際に社会もそのように動き、ますます自分たちの首を絞めてしまうのだ。こんな状況だからこそ、私たちはいつの間にかこんなにも「生き急いで」しまっているのである。

この状況を打破するのに明快な「特効薬」がないのは百も承知だ。あるなら私がすぐにでも実行しているし、これほど多くのひとが病むこともないだろう。だが、それを認めたうえでも、ほんの少しでもいいから、立ち止まって冷静に考えてみてほしい。

私たちにはなぜこれほどまでに長い人生が与えられているのだろう?それは、休む時間、立ち止まる時間、挫折から這い上がる時間も考慮されているからではないのだろうか?人生を最も「効率的」に生きるのに、これほどの時間は必要ない。もし私たちが、生まれ、子孫を遺し、そして死ぬことだけを目的とした存在なら、人生はあまりにも「冗長」なのである。だが、実際の私たちの人生は決してそうではない。それはなぜなのだろう? 「3万日」は確かに長くはないかもしれない。しかし決して短くもないはずだ。もし本当にそのすべての日々に「全身全霊」で打ち込んでいたら、すぐに身も心も持たなくなってしまうのではないだろうか?

だから、疲れたら休めばいい。なにもしない1日があったっていい。1日くらい、さらに言えば10年だって、無駄にしたっていいじゃないか? 真の意味で「無駄」などということは、きっとどこにもないのだから。言ってしまえば、私なんかの行為はすべて、大局的に見れば「無駄」なのである。だが、「無駄」なことと「無価値」なこととは別物である。少なくとも私自身にとってはそうだ。だから、私はこうして今日もこれを書いているのである。

人生にとって重要なことは生き抜くことだ。そして明らかに、私たちの人生は長い。だから、どうかゆっくり歩んでいってほしい。「安息日」は最も無駄な日ではなく、最も重要な日なのである。そのことを決して忘れないでほしい。あなたが自分のからだをいたわり、心を大切にして、これからも末永く生きていくことを、私は心の底から、強く願っているのである。