私たちが考えるべきは尊厳死や安楽死ではなく、「尊厳生」や「安楽生」ではないのか?

現在の日本においては、「安楽死」は法的に認められていない。ただこの「安楽死」という用語の定義は実のところ曖昧なので、まずここで私が用いる場合の定義を再確認しておかなければならないのだが、「安楽死」というのは、過度の「延命治療」を拒むこと(=「自然死」を望むこと)とは違う。ここでいう「安楽死」とは、「治る見込みのない末期患者が、自己決定権を行使して、第三者の助けを得て自殺すること」を意味する。だからこれは「自殺幇助」にあたるとされ、現在の日本では法律上に認められておらず、違反者は処罰の対象になる。

だが、これは必ずしも世界的な共通見解ではない。たとえばこうした「安楽死」という選択肢を受け入れ、外国人にもそれを認めているスイスでは、こうした「自殺旅行」を志願するひとの数が増えていることが報じられてもいる。

[チューリヒ 21日 ロイター] - 安楽死が目的でスイスを訪れた外国人が、2009─12年の4年間で倍増したことが、「医療倫理ジャーナル」誌に掲載された調査で明らかになった。 スイスは1940年代から、直接の関係をもたない人物のほう助による自殺を合法と認めている。このほか、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーと米国の一...

さらに最近でも、アメリカの29歳女性の決断を巡って、安楽死についての議論が巻き起こっている。

彼女は自分の病気の予後や終末期医療などについて慎重に考慮して、自宅のあるカリフォルニア州サンフランシスコ湾岸地域から、オレゴン州に転居することを決断しました。

そしてここでもうひとつ注目したいのは、本来「(人間としての)尊厳が保たれた状態での死」という意味である「尊厳死」が、しばしば「自然死」や「安楽死」と混同されていることである。

ただ、

それでは「人間としての尊厳」とはなんなのだろう?

回復の見込みのない状態において、誰かに「安楽な死」を与えてもらうことが「人間としての尊厳」を護ることになるのか?

などと、このような問題は考えれば考えるほど深みに嵌まり、キリがない状態になってしまう。だから、私たちはいつまで経っても明快な「答え」を出せないまま、悩み続けているのである。

しかし考えてみれば、もともと、生死に関わることというのは、ひとの自由になることではない。これは明らかに「神」(はたらき)の領分である。言い換えると、このような問題は私たち個人がいくら考えたところで、手に負えるものではないのだ。だが現代の私たちは、中途半端に「安楽死」や「遺伝子治療」あるいは「中絶」や「出生前診断」などが「選べる」力を手に入れてしまった。その「手に余る力」によって、私たちは自らを悩ませてしまっているのである。しかしそれが「手に余る力」である以上、私たちはそれをどう扱えばいいのか、正しい答えなど見つけられるはずがないと私は思う。自他の生死を操作したり、制御するのは私たちの力の及ぶことではない。これはやはり明らかな事実だと思うのだ。だがそのうえで、私たちは自分が生きている間において、

「自分の生きかたを選択し、より望ましい人生を創っていく」

力を与えられているのではないだろうか?だから私はこう言いたいのである。私たちが考えるべきは尊厳死や安楽死ではなく、「尊厳生」や「安楽生」ではないのかと。

自分のからだが弱っていき、できないことが増え、節々が痛んでくる。病気になり、医学でも抜本的治療は見込めず、苦痛だけがある……。そんなとき、

いっそ殺してくれ!

と言いたくなる気持ちが理解できないわけではない。だがやはり、私は生まれてきた以上、どんなかたちであれ最期までそれを体験し切ること、つまり生き抜くことによって初めて、人生は真の「完結」を見るのではないかと思うのだ。そしてなにより、なぜ「尊厳死」や「安楽死」を議論するのに比べて、「尊厳生」や「安楽生」の在りかたにはあまりに無頓着になってしまうのだろう?私たちは生まれてきたのだからいずれ必ず死ぬ。しかし、私たちは少なくとも「死ぬために生まれてきた」のではなく、

「生きるために生まれてきた」

のである。

ひとが既にこれだけの技術を手にしてしまった以上、たとえば自発呼吸ができなくなったひとに対して、

人工呼吸器を付けてでも生きていてほしい

と願うことが正しいのか正しくないのか、私にはわからない。だが

どんなひとも、「安楽に生き、尊厳を持って生きる」ことができるようになってほしい

と願うのが間違っているとは、やはり思えない。そしてそれができることこそが、「人間としての尊厳」と呼べるものなのではないだろうか?生死は私の決めるところではないが、私の生きかたは私が決める。これが人生の苦しみのもとになり得ることも確かだが、やはりそれが人生の醍醐味だとも思うのだ。そしてだからこそ、私も迷いながらでも少しでも喜び多い人生を送りたいし、あなたにもそうあってほしいと、願っているのである。