これからの時代に本質的な「格差」は存在しない。私たちはみんな一蓮托生である

自分より相手のほうが優位な立場にあるか、または勢力が拮抗しているとき、それを自分にとって有利な状況に変えるにはどうしたらいいだろう? そのひとつの答えが、

「相手の勢力を分断する」

ということである。これはつまり、

「相手の集団のなかの「違い」を強調して内部分裂を引き起こす」

ということだ。このとき利用される「違い」とは、たとえば「肌の色」といった外見上の違いだったり、「年齢」といった世代の違いだったり、「収入」といった社会的立場の違いだったりする。それを「強調」し、それぞれのひとびとの「劣等感」を刺激することに成功すれば、相手の「団結」は解かれ、一気に弱体化するのである。そのためには、相手から「冷静さ」を奪い、いかに「ささいな違い」を大きく見せるかが重要になってくる。

それを仕掛けているのが誰なのか、いつから始まったのか、その狙いはなんなのかは、実のところ問題の核心ではない。真の問題は、そのような状況が既に私たちの日常のあちらこちらに浸透してしまっているということである。そのひとつの顕著な例として、いわゆる「団塊の世代」やそれより高齢のひとたちを、ときに「逃げ切り世代」などと表現することがある。これは単純に言って「社会問題からの逃げ切り」である。私たちが今のままの価値観や社会体制を継続していった場合、いずれそこに限界が生じることは、誰にも否定できない事実である。社会福祉の崩壊、経済制度の激震、自然環境の致命的な破壊……。これらが「いずれ必ず」起きることは誰もが気付いている。だがもし団塊の世代を「逃げ切り世代」だと考えるなら、それはそのような事態が少なくともここ30年ほどには起きないと想定しているということだと言える。それに現代の多くのひとは「生まれ変わり」を信じていないのだから、言ってしまえば

自分の生きているうちに問題が起きなければいい

とさえ考えるひとが出てくる。

100年後はわからない。だが30年は持つだろう

だからこそ、原発は再稼働され、自然は破壊され、先進国は「美食」を止めない。そして若者は未来に希望を持てず、ありとあらゆる「格差」が拡大していくのである。

だが、ここでいちど冷静になって、真摯に自分に問いかけてみてほしい。この現代文明は、このままの在りかたで、本当にあと30年も持つのだろうか?言い換えれば、団塊の世代は本当に逃げ切れるのだろうか?実のところ私は、決してそう思っていない。これはつまり、現在生きているほとんどのひとたちは、順当に行けばまず自分が生きている期間のうちに、「現代文明の終わり」に立ち会うことになるということだ。そしてもし私の感覚が正しいなら、これからの時代を考えるにあたって。もはや本質的な意味での「格差」はどこにも存在しない。私たちはまさに「一蓮托生」であるということなのである。

たとえば現代文明はその増え続ける人口に対して、食糧もエネルギーも充分に足りていない。これはもちろん分配が適切でないという面もあるが、それを差し引いてもこのままのペースで人口が増加し、ひとびとが「文明化」し、エネルギーの消費量を高めていったとしたら、きっとそう遠くないうちに破綻することは明らかである。

そうは言っても、もうずっと石油が枯渇するなどと騒がれながら、今でも充分に残っているではないか?

という意見もあるだろう。だが間違いなく、ひと昔前より現在のほうが、石油にしろ天然ガスにしろ、それらを手に入れるのは難しくなってきている。だからこそ、「シェールエネルギー」や「バイオエタノール」技術に躍起になっているのである。

また、アジア最大のジャングル地帯であり、世界有数の面積を持つ「ボルネオ島」のジャングルも、あと数十年で「消滅」するとされている。日本の倍ほどのある島の「ジャングル」が消滅するというのはにわかに信じ難いような話だが、今のままで行くと2050年には世界中の熱帯雨林が「完全消滅」する可能性があるとされているのだ。そのとき、世界の総人口はさらに増加して100億人に達すると見込まれている。つまり私たちは、緑のないなか100億もの人口を抱えた地球で生きていくことになるということである。それを「生きていく」というのが適切なのかどうか、私にはわからない。

あるいは現在、先進国は資本主義をなんとか維持するため、「金融緩和」などの施策を講じているが、その結果さらに膨らむ自らの負債で潰されそうになっている。しかし、なんとしてでも「景気」を維持し、カネを回し続けなければ資本主義は自壊する。だがそれでもし短期的にでも経済が浮揚したとしても、それはそれで「より効率的な自然破壊」を推し進めることになるのである。つまり私たちは、

「明日の生活を維持するためには10年後の生活を犠牲にする必要がある」

とでもいうような、根源的なジレンマに陥ってしまっているのである。

このような状況を総合的に鑑みると、私はもはや

団塊の世代は逃げ切れる

とりあえず自分の生きているうちはなんとかなる

などというのは幻想だとしか思えない。私たちがもしそんな考えのまま、「ささいな違い」でお互いを責め合い、団結を拒んでいたら、私たちの未来は、きっと閉ざされてしまうだろう。

だが私は、ある意味今の状況を喜ばしく感じている。というのは、自分が生きているうちになんらかの「決着」を見ることができるなら、「将来の禍根」としてそれを誰かに丸投げにしてしまう不安を持たなくてもいいからだ。私たちはもう、そういう局面に立っているのだ。それに、私たちはそのことも理解したうえで、この時代に生まれてきたのである。その結果がそうなるにせよ、これほど「劇的な時代」はそうそうない。そしてできることなら、私は自分が死ぬときに笑っていられることを、願わずにはいられない。