負の念が湧くのを責める必要はないが、それを言動や行動に移さないことが大切だ

私たちは日夜様々な想いに晒されながら生きている。私たちはできれば穏やかに暮らしたいと思っているのだが、実際には自分の感情は不安定で、刻一刻と変化していく。これは「自分の感情」というもののなかに、多くの他者からの影響が与えられていることも大きな原因である。それはあなたの喜びを膨らませることもあるが、逆に不安や焦燥感などの負の念を煽り、高める作用を及ぼすことも多い。それに現代では明らかに多くのひとが病んでいるのだから、黙っていても数知れない負の念が、あなたの感情を揺さぶり、同調を迫ってくるのである。

ときに私たちが「善人」や「聖人」、あるいは「純朴(ピュア)なひと」などと呼ばれるようなひとを想像したとき、そんなひとはそもそもそんな負の念自体を抱かないのだと思うかもしれない。精神的指導者のなかにも、

それを行動に移さないとしても、なにかしら「邪な想い」を持った時点でそれが罪である

というように考えるひともいる。確かに理想的には、そんな「負の念」や「邪な想い」自体を持たない状態が望ましいのかもしれない。しかし「自分の想い」というものの複雑な成り立ちと、それを操作しようとする多くの存在を考えたとき、私はそのような完全な「無垢」の境地に至るのは誰にとっても容易ではないし、それをむやみに求めるのも酷なことだと思える。少なくとも私は、今後自分がそのような境地に達することができるとはとても考えられない。

以前にも書いたことだが、私には日々、隙あらば

お前には生きる価値などない

あいつは嫌いだな。相手もお前のことを嫌いだと思っているぞ

などという想いを送り込んでくる霊が関与してくる。それは私が特殊なのではない。ただ私は霊媒師としての経験から、その関与を自覚できるだけであり、それは誰にでも、もちろんあなたにもいつも関わってきているのである。それは今まで多くの霊存在に直接訊いてきたことからも断言できる。

だからこうした仕組みを理解すればするほど、

「負の念を持たない」

「邪な想いを抱かない」

などというのはほとんど不可能ではないかと思う。言い換えると、あなたに負の念が湧いてくるのはあなたの責任ではない。それは天気が移り変わるように、あるいはテレビがいろいろな番組を放送しているように、避けられないものである。だからあなたがするべきことは、自分の力の及ばないことを変えようとするのではなく、雨が降ったら傘を差し、好まない番組は観ないことなのである。私たちひとりひとりには、「現象そのもの」を変える力はないかもしれないが、少なくともそのなかから自分が望むものを「選択する」力はある。それが「主体」である。だから、負の念が湧くのを責める必要はないが、それを言動や行動に移さないことが大切だということを、私は言いたいのである。

本当は大切に想っているのに、なぜか相手の嫌なところが気になって離れず、相手を嫌いになりそうになる。わけもなくイライラして、周囲に当たり散らしたくなる。少しの失敗で落ち込んでしまい、自分の生きている意味がわからなくなる……。こんな瞬間や経験は、きっと誰にでもある。あなたはそのことを気に病む必要はないし、そんな想いが湧いてくることに責任を感じる必要もない。もちろん、自分を責める必要もない。ただ、それを「選択」し「行動」に移したら、そこからはもうあなたの責任だ。だから大事なことは、相手を嫌いになりそうになっても、周りに当たり散らしたくなっても、その一時の感情に流されて取り返しの付かない争いを起こさないこと、死にたくなっても死なないことなのである。それが簡単なことだとは言わない。ただ、あなたにも確実にその力があることだけは、決して忘れないでほしい。だからこそ、私も様々な霊存在の関与を受けながらも、今までなんとか生きてこられたのである。

なんでも大切なのは、

「できることからやる」

ということだ。そうやって自分の感情をうまく「選択」することができるようになっていけば、いずれ望まない想いが自分に湧いてくることも少なくなっていくかもしれない。だがまずはひとつひとつ、できることからやっていけばいいのである。ずっと晴れが続くこともないが、雨が止まないこともない。そしてあなたが雨に当たるのは、あなたへの罰でもなんでもない。そのことがわかれば、きっといずれ雨の日も、少しは楽しめるようになるだろう。