呪い代行業者の存在。悪魔の力に魅かれる一方で、神霊の想いが顧みられないのはなぜなのか?

近年、「呪い代行業者」が増えつつあるという話を耳にした。確かに、ネットで少し検索してみただけでも、多くの業者を見つけることができた。ただ私が言えることは、こうした業者に依頼するのも、自身がこうした業者として活動するのも、まったく薦められることではないということだ。それはこうした業者に力がないからではない。もちろん玉石混交ではあるだろうが、なかには本当に力を発揮するようなものもあるとは思う。だが、もしこの世界の仕組みを少しでも理解したなら、その自分の「悪意」に対するどのような「反作用」があるかに想いを巡らしただけで、そのような行為に手を出すことはとてもできなくなってしまうだろう。少なくとも、私はまっぴらごめんだ。

イライラして壁を殴ったら拳が傷む。これは壁が「殴られる」というかたちで与えられたのと同じ力を、拳に返しているからだ。これが物理科学でも有名な...

それでも、私たちはどこかで「力ある存在」を求める。そして、問題を解決することができるなら、たとえそれが「悪魔の力」であってもいいと思ってしまうひともいる。だが、ここでもうひとつ考えてほしいことは、もし「悪魔」と呼ばれるような存在に力があることを信じるなら、なぜ「神霊」の力も同じくらい信じようとしないのかということだ。実際、私たちには誰でも「守護霊」(指導霊)がいて、ひとりひとりを見守ってくれている。しかし、私たちはほとんどそれに気付いていないし、そうした存在に想いを馳せることも少ない。実はこれこそが、現代の病みを深くしている大きな原因のひとつだと、私は考えているのである。

これはなぜなのかと考えてみると、私たちがどんなときに霊を意識するかという問題に突き当たる。つまりこういうことだ。私たちはなにか悪いこと(不幸・不運)が続くと、

これはなにかの天罰なのだろうか?

もしかして誰かが私を恨んでいて、呪われているのではないだろうか?

と考えてみたりする。もしあなたが誰かに呪いをかけようとしたとして、相手の体調が悪くなったり、相手が困難に見舞われたりしていたりしたら、あなたは呪いの効力を信じたり、悪魔に感謝したりするかもしれない。しかし逆に、あなたに特に困ったことも起きず、穏やかな1日を過ごせたとして、そのとき神霊の存在に想いを馳せたり、感謝したりすることはとても少ない。それはともすると「当たり前」だと感じてしまうからだ。重い病気に罹ってそれが治ったら、もしかするとあなたは<神>に感謝するかもしれない。あるいは宝くじに当選したら、仏壇に供えものでもしようかと思うかもしれない。だが1年に1度も病気に罹らなかったからといって<神>に感謝するひとは、実際ほとんどいないのである。

だから、神霊はいつも「悪魔」より分が悪いのである。だからどんなに「呪い代行業者」が増えたからといって、私がたとえば『呪いから護ります』というサイトを開設したとしても、そこに依頼が来ることはほとんどないだろう。

ほら、相手が不幸になったでしょう?これで依頼に応えたということでいいですね

と言えば納得するひとも、

ほら、今日も無事に過ごせたでしょう?これで依頼に応えたということでいいですね

と言って納得してもらえるかは自信がない。それどころか、こんなことを言われてしまうかもしれない。

いやいや、今日のご飯の炊き上がりが、ちょっと水っぽかったんですよ!

ひとつ言えることは、「悪魔」を生み出したのも、神霊から力を削いだのも、私たち自身だということだ。なぜなら、私たちひとりひとりが持つ「想い」の力こそが、この世界で最も強いものだからである。こうしたことをときには思い出してほしい。そうすればきっと、あなたを見守っている存在も、笑顔になってくれるだろう。しあわせは簡単には実感できないかもしれない。だがあなたにはしあわせになれる力がある。それを目覚めさせるかどうかは、あなた自身にこそ、かかっているのである。