<神>の非情さに憤るとき、私たちは自分の胸に掌を当てる必要がある

哀しみや苦しみに直面したとき、私たちはときに<神>を責める。たとえば愛するひとが不慮の死を遂げたとき、あるいは未来ある若者が夭折したとき、私たちは<神>の存在を疑ったり、その非情さに憤ったりする。

だが、私たち自身もときとして<神>になることがある。たとえば「漫画家」は、自分の作品の登場人物たちの運命を、自由に決定できる。ときには誰かと誰かを愛し合わせることもできるし、誰かを死なせることもできる。その作品世界において、あなたは<神>である。これはもちろん漫画家だけでなく、映画や舞台の「脚本家」でも同じことだ。

それにこれは別に特別な「創作家」にだけ言えることではない。たとえば「保護者」(親)はこどもにとって<神>のような権限を持つ。保護者がその役割を放棄してしまったら、こども(特に乳幼児)は生きていくことができなくなる。

また、これは私たちの「食べもの」にも言える。私たちは自分たちが利用する動物を「家畜」と見なし、食用にしたり、毛や皮を服飾品に加工したりする。そのとき、もちろん相手の動物は死ぬことも多い。そしてその決定に、相手の事情がまったく考慮されないのは明らかだ。どれを生かし、どれを殺すかは私たちが決めることだ。だから、私たちは相手の動物にとって<神>のような存在であると言える。

つまりここで言えることは、「漫画家」は「漫画の登場人物」より「上位の存在」であり、「保護者」は「こども」よりも「上位の存在」であり、「人間」は「家畜」より「上位の存在」であるということだ。そして<神>は、私たちよりも「上位の存在」として想像されている。

ここで重要なのは、「上位の存在」(高位の存在)というのは必ずしも、相手よりも「高貴な存在」(優れた存在)であることを意味しないということだ。漫画家は漫画の登場人物よりも高貴なのだろうか?保護者はこどもよりも優れているのだろうか?人類は牛や豚よりも優れているのだろうか?そして<神>(霊)は、私たち(肉体人)よりも大きな価値のある存在なのだろうか?

そして同時にこうも考えてみてほしい。私たちが漫画の登場人物に「ドラマチックな悲劇」を与え、家畜のいのちを短くして飽食に走り、子育てを蔑ろにしているのを棚に上げて、<神>を理不尽だと言うことなど、できるのだろうかと。

神霊は決して私たちを甘やかしてはくれないし、今生でなぜこのような体験をしているのかを本当に理解するためには、前世も含めた大きな「流れ」を知らなければならないのだから、現実には不可能に近い。だが、私の今までの経験から言えることは、守護霊や神霊は甘くはないが、決して悪意を持ってはいないということだ。そして今の私にできることは、自分より下位の存在に対して愛情を注ぐということだけだ。私はそんな存在になりたいし、もしそれができたなら、私がこの世を去るときにも、穏やかな気持ちでいられるのではないかと、思っているのである。