臨床宗教師。死後の世界を確信できなくなったことは、本当に望ましいことなのだろうか?

近年「臨床宗教師」という活動が生まれ、注目を浴びているという。この概念は少なくとも日本においてはまだ新しいものであるし、まずオンライン百科事典の定義を紹介しておく。

死期が迫った患者や遺族に対して、宗教や宗派にかかわらず、また布教伝道をすることもなく、公共性のある立場からの専門的な心のケアを行う宗教者。死への不安、生きる意味の喪失感や罪責感、愛する人を失った悲嘆など、それぞれの心の苦しみや痛みを理解し、和らげるための支援を行うことを目ざし、その人材育成の動きが始まっている。欧米では臨床にかかわる宗教者として、教会や寺院などには属さず、病院や軍隊など人の生死に関係する場所で患者や遺族の心のケアに携わるチャプレンchaplainが活動している。臨床宗教師はこのチャプレンの日本版を目ざしている。

国内での専門家育成の動きの発端となったのは、2011年(平成23)3月に起きた東日本大震災である。

日本大百科全書(ニッポニカ) - 臨床宗教師の用語解説 - 死期が迫った患者や遺族に対して、宗教や宗派にかかわらず、また布教伝道をすることもなく、公共性のある立場からの専門的な心のケアを行う宗教者。死への不安、生きる意味の喪失感や罪責感、愛する人を失った悲嘆など、それぞれの心の苦しみ...

私はこうした臨床宗教師の存在を、メディアを通して知ったのだが、私がこの活動を画期的だと思う大きな理由は、まず特定の宗教や宗派に関わらず、広く一般の多くのひとびとに関わることができるということ、そしてこの活動に、医療者が連携しているということだ。しかし、冒頭の定義にもあるように、

「宗教や宗派にかかわらず、また布教伝道をすることもなく、公共性のある立場からの専門的な心のケアを行う」

というこの姿勢は、相反する問題点も抱えていると私は思う。私が見た特集番組のなかで、ある臨床宗教師が相手のひとにどんな言葉をかけるべきか悩んでいる場面で、指導者は

自分の考えを押し付けるのではなく、まずは聴き役に徹すること。そのうえで、このひとのためにどうしても伝えたいことが出てきた場合に、また改めて考えてみることが重要ではないだか?

という趣旨の助言をしていた(と私は記憶している)。確かにこれは「布教伝道をすることもなく、公共性のある立場」を保つうえでは大切なことかもしれない。また私がたまたま見つけた社会政策研究者、金子良事氏のブログにも、

今回、中心に取り上げられていた私と同世代のお坊さんと、ガンを克服したお坊さんのお二人が出ていらっしゃいました。後者は、自分の経験が相対化できていなくて危ないなと思いましたが、それはケア一般レベルで起こる問題なので、まあ、措いておきましょう。私がああそうかと思ったのは、今は宗教者でさえも「死」について確信がないということです。この点は高木慶子さんが仰っていたことと逆でしたが、私はその方がかえってよいと思いました。確信がないということは、謙虚足り得るということだからです。

私はたぶん、上から「死」についてアドバイスできるよりは、一緒に分からない中を悩んでいることこそが、よりいっそう、せめて背実であろうという姿勢を生み、相手との間の距離を少しでも縮めるのではないか、と感じたのです。

という意見が書かれていた。確かに、

確信がないということは、謙虚足り得るということだ

というのも、

自分の経験が相対化できていなくて危ないな

というのも一理あるとは私も思う。特に「研究者」や「科学者」としてはその姿勢が基本となる。もし誰かが自分の<絶対的真実>を疑うことなく他者に押し付けるようになれば、そこには大きな問題が生じることも多い。

だが一方で、私にはこうも思えてならない。

今は宗教者でさえも「死」について確信がない

というなら、いったい誰が真の意味で死後の世界について語り得るというのだろう?死を恐れ不安になるひとを支えるには、

上から「死」についてアドバイスできるよりは、一緒に分からない中を悩んでいること

という姿勢もときには重要かもしれない。だが、宗教であれ学問であれ、なにかを究めるということは、先人の知恵を受け継ぎ、誤りは正し、自分なりの「真実」を見出していくことではないのだろうか? その自分なりの「真実」は必ずしもすべて正しいとは限らない。しかしそのことも覚悟のうえで、相手のためにそれを伝えること、その「責任を負う」ことができるのが「専門家」であり、ここで言えば「宗教者」の役割ではないのだろうか?

私は

死後の世界はあるかもしれないしないかもしれない

などとは言わない。

死後の世界はあります

と言い切る。それは私なりにそれを確信できるだけの体験をしてきたからだ。それを「相対化する」のは今の私の仕事ではない。私は私の「主観」を伝える。だがそれはそれなりの「体験」に基づいている。それを他者の視点から検証することは必要だろう。私も私のすべてが正しいとは思っていない。だが少なくとも

死後の世界はあるのか?

という問いに対して、私は確信を持って

あります

と答えられるのである。その見解は、これからもずっと変わらないだろう。

ではなぜそれが現代の、ほとんどの宗教者にできないのかと言えば、彼らが「学習者」であって「体験者」ではないからだ。言い換えると現代のほとんどの「宗教者」は「霊媒師」(シャーマン)ではないということだ。実際に霊存在を見たことも、守護霊に叱咤されたことも、魔に罵倒されたこともないひとに、「確信」が持てないのはやむを得ない。どんなに経典を読もうが、宗教的行為に熟達しようが、自分が直に体験したことでなければ、それは真の意味で「自分のもの」にならないのである。

だから私はこの特集番組を観て、私は「臨床宗教師」にはなれないと感じた。だが、だからこそ、私はここでこれからも、私なりの「真実」を伝えていく。もしそれを医療者も、臨床宗教師も言えないというなら、代わりに「自由な」私が言おう。死後の世界はある。そしてそれでも、人生はかけがえのないものなのだ。騙されたと思ってでもいいから、私はあなたにそのことを、信じていてほしいのである。