「理解する」ということの意味を、私はまだ誤解していた

あなたのやっていることは、理解できない

あなたの言いたいことはわかる。でもやはりそんなことはしちゃいけない

あなたのやりかたもまったく理解できないとは言わない。でも私なら、違う道を選ぶなぁ……。

このように私たちは、「理解する」とか「わかる」などという言葉を遣ったり、他者から言われたりする。私たちは多かれ少なかれ、誰でも他者のことを理解したいと思っているし、自分のことをわかってほしいと思っている。少なくとも私自身はそうだ。だから私もこれまでここでも何度となく、

理解できる

理解してほしい

というようなことを言ってきた。しかし実際には、私はどこまで他者を理解することができるのだろうか?

そして逆に、私はどこまで誰かに理解してもらうことができるのだろうか? このことを改めて考えてみたとき、ふと今までとは違う視点が開けた。そして私は、「理解する」ということの意味を、私がまだ誤解していたということに、やっと気付いたのである。

お前に俺のなにがわかる!

俺の苦しみは、俺にしかわからないんだよ!

相手との話し合いを終わらせたいとき、あるいは相手を深く傷つけたいときは、このように言うのが最も効果的である。なぜならこれは、相手とのコミュニケーション(相互理解)の道を閉ざす「奥の手」(殺し文句)だからだ。私も何度もこの言葉をぶつけられてきたが、この言葉に反論するのが極めて難しいのは、これが確かに一面の真理を突いていることを、誰もがどこかで知っているからである。

かといって、これを全面的に受け入れ、屈服してしまうと、究極的には

私は私、あなたはあなた

という孤独で断絶した世界を認めてしまうことになる。少なくとも私が

誰かを理解したい。誰かに理解されたい

という想いを棄てきれずに生きてきた背景には、

「私のことは私にしかわからない。あなたのことはあなたにしかわからない」という「限りなく正しいようにも思える、強力な主張」に完全には屈服したくない、そしてそれはやはりどこかが腑に落ちない

という想いが、根強くあったからだと言ってもいいだろう。

だが言うまでもなく、他者を理解するのは難しい。それは私たちがいかに自分自身が理解されないことに悩み、苦しんでいるかを考えただけでもすぐわかる。なぜそれが難しいのかといえば、それは「誰もが異なる存在であるから」というのが最大の理由だと言えるだろう。私はあなたと同じ人生を歩んできたわけではない。だから、あなたの「痛み」を知らないし、なにがあなたの痛みを呼び起こすのかを知らない。我が身をつねってみても、わかるのは「私の痛み」であって、「あなたの痛み」ではないのだ。

私だって我慢しているんだからあなたも頑張りなさい!

という言葉が残酷なのは、このためである。

ではやはり、誰かを理解すること、そして誰かに理解されることは不可能なのだろうか? 私はこのような問いに対して、

少なくとも「理解しようとすること」はできる

と考えてきた。しかし、これでは不充分だったことに、ようやく気付くことができたのだ。「理解すること」は途方もなく難しい。だがそれを認めたうえで、「理解しようとすること」が唯一の希望であることは確かだ。しかしそれでは、「理解しようとすること」とはなんなのだろう?今までの私の考えが至らなかったのは、まさにこの点だ。そして今の私ならこれにこう答えられる。

それは、「想像しようとすること」だ

「私の痛み」は「あなたの痛み」ではない。だがそれが「痛み」である以上、そこにはどこかで共通点があるはずだ。だから、私はあなたの痛みを「想像すること」ができるのである。「頭痛」を経験したことがあれば、相手の「腹痛」を想像(類推)することができる。だからこそそこに「共感」して、手を差し伸べることもできるようになる。これが「成長した」ということだ。そして私たちが何度も生まれ変わり、それぞれの体験を積んでいくのは、まさにこの「想像力」を拡げるためだとすら言えるかもしれない。なぜなら私は、

私が生まれてきたのはね、「頭が痛い」っていうのがなにかを知るためなんだ

といったひとを知っているからである。

だが一方で「想像」はあくまでも「想像」に過ぎない。だから「現実」はどこかで必ず「想像」と食い違うものだ。だからやはり、私はあなたのことを完全に「理解する」ことなどできないし、あなたも私のことを完全に「理解する」ことなどできないだろう。だがもし私たちがお互いにより多くの体験を重ね、より多くの「共通項」を見出すことができれば、私たちはもっと近しい存在になれるかもしれない。それでも「私」と「あなた」は完全には一致しない。だがだからこそ、私たちの「いのち」は永遠なのである。

私は殺人者ではない。だから殺人者の気持ちを理解することなどできない。しかし、

もし自分が殺人者になるとしたら、そこにはどんな背景や要因があるだろうか?

と想像することはできる。そしてそのような思考を深めていけばいくほど、

もしかしたら、なにかの状況が違ったら私もこのひとのようになっていたのかもしれない

とさえ、思えてくるのである。私はここで決して被害者感情を軽視したり、殺人者を過度に擁護したりすることを意図しているわけではない。だが一見どんなに自分とかけ離れていて、理解できない、あるいは理解したくないと思えるような存在との間にも、やはりどこかで共通点があることを、私は認めざるを得ないのだ。そしてそれはある意味では残酷な真実でもあるが、同時に救いにもなり得るはずなのである。

これまで私はあなたを理解しようと努めてきました。だがそれは傲慢で、愚かでした。許してください。ただ、これからも私はあなたの痛みを「想像」し、できればそこに寄り添い、それを分かち合うことができるようになりたいと思います。それは決して平坦な道のりではないだろうが、私はそこにこそ「人間性」という名の希望が残されていることをこれからも信じていきたい。そしてだからこそ、私はあなたが今どんなに苦しんでいようとも、いずれ必ず笑える日が来ることを願っているし、確信しているのである。