現代を覆い尽くす「つながり」の両面性に、あなたは気付いているだろうか?

私は行方不明になる自由を持ちたいんだ

携帯電話がほとんどのひとびとに広まってからも、頑なにそれを拒んだあるひとが、その理由をこのように述べていたのを耳にしたことがある。

しかしそれからさらにときは流れ、携帯電話は「スマートフォン」へと進化しただけでなく、さらに多くの「ウェアラブル端末」の登場によって、私たちの生活はより「つながりやすい」ものになった。また、「Facebook」や「Twitter」、あるいは「Line」といった「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」(SNS)がそれにさらなる力を与えているのも間違いないだろう。そしてもちろんそれは個人的なものだけに留まるものではない。「グローバル社会」や「グローバル経済」といったものが指すのはまさに世界的な「つながり」であり、もはやあらゆる国家や個人も、その流れと無関係に生きることは不可能と言ってもいいだろう。「つながり」なしにこの現代社会を語ることはできないと思えるほどだ。

だからいまや冒頭に紹介したひとが言ったような「行方不明になる自由」を求めるのは限りなく困難を極めていると言えるだろう。旅行先でさえ仕事のメールをチェックしないわけにはいかないし、世界中でインターネット環境が整備されつつある現代において、

つながる環境にない

という言い訳はとても苦しい。携帯電話どころかスマートフォンを持っているのが標準かのように見なされつつある今、携帯電話を持たないのは仕事の継続どころか就職すら危ぶまれるとまで言ってもいいかもしれない。もはや、個人の「信念」や「選択」でどうにかなる問題ではなりつつあるのである。

「他者とつながる」ということ自体はもちろん善い面も多い。インターネットが整備されていなければ、私がこのように『闇の向こう側』の活動を行っていくこともできなかっただろう。それにこれはデジタルなことだけに限らない。もし誰とも「つながり」を持つことができないとしたら、自分の生存に関することはすべて独力のみに頼って行わなければならないということになる。しかし、実際にそのようなことはできないし、それが貫徹されたならこの世はまさに「弱肉強食」のものでしかなくなる。だが私たちは、そして私たちの祖先はそれを選ばなかった。だからこそ私たちは「社会」(共同体)を構築したのである。その主眼は「相互扶助」、そして「弱くても生きられる環境」を生み出すためにある。そうでなければ、個体としてはとても脆弱な人類が、こうして生きてこられはしなかっただろう。

だからその意味において、「つながり」を求めるのは私たち人類にとっては特に本質的な感情だと言ってもいいだろう。だが、たとえどんなに有益なものであっても、過剰になったり、用法を誤れば害になるのを私たちは知っている。そしてそれは「つながり」も例外ではない。

現代の日本人の多くは会社員である。自営業者やいわゆる「フリーランス」であればその色合いは多少薄まるにしても、やはり現代の日本人のほとんどは「組織人」として生きているということになる。この「組織」というのもまさしく「つながり」が生み出したものなのだが、私たちはときとしてその「つながり」に苦しめられる。組織内での対人関係がうまく行かなかったり、そこで自分が果たすように求められている役割が本来の自分の意に沿わないものであったりしても、そこから抜けられずに苦しんでいるひとは大勢いる。それは、その「つながり」を断つのが難しいからだ。

あるいは、当初は楽しむためだったり仲間を見つけるためだったりしたはずのSNS上のやりとりに、いつしか疲弊してしまうひとも多いという。たとえば相手の言動(投稿)に対してどう反応していいかわからなかったり、逆に自分の投稿に対して一向に反応が帰ってこなかったり、こうしたことの積み重ねで知らず知らずのうちに自らが追い込まれてしまうというのである。

その結果、たとえば「鬱症状」に陥ってしまったらどうなるだろうか? このような状態においては、まさにこの「つながり」が鋭利な凶器になってしまうことも多い。仮に静養に入ったとしても、周囲のひとびとの眼(「平日の昼間からなにをしているのか?」などと怪訝に思われるのではないか?)が気になって外出できなかったり、自分を心配する知人や友人、あるいは親族からの電話やメールにも応対できなくなってしまう(みなそれぞれが悩みや苦しみを抱えているなかで自分が休んでいる後ろめたさや、相手にそのつもりがなくても「いつまで休むの?」という無言の圧力を感じてしまう)こともある。ましてや、自分の心が病んでいること自体を伝えられていない相手に対してはなおさらだろう。

またそもそも、多くのひとびとにとっては最も身近で、強固なものと考えられている「家族」や「親族」といったひとたちとの関係がうまく行っていないひともいる。保護者から虐待を受けているこどもなどはもちろんその最たるもののひとつだが、そこまでは行かなくとも「当然良好な関係があること」を前提とされているものとの間に実は不和があるというのは、私たちに多くの苦しみをもたらすのである。

こうした例は、現在ますます促進され、賞賛されているかのように見える「つながり」にも、明らかな負の側面があることを示している。そして、ここでもうひとつ考えてみてほしいのは、どんなに広く、多くのひとびととの「つながり」を持っているように見えても、その「核」となるひととのつながりが断たれてしまうと、その他の<つながり>は簡単に崩壊してしまうこともあるということだ。

たとえば誰かあなたにとって大切なひとが死んでしまったとき、それを知らない職場の同僚に食事に誘われたとしたらどうだろう? あるいはそんな日に、あなたが心待ちにしていたアーティストのコンサートがあったとしたらどうだろう? きっとあなたは行かないだろうし、仮に行ったとしてもほとんど楽しめないだろう。あなたが普段は感じていた、同僚やお気に入りのアーティストとの<つながり>はその核となる「つながり」があってこそのものであり、それが失われてしまえば急激に脆くなってしまうのである。

あなたを失えば世界は灰色になる

などというのは普段は

歯の浮くような言い回しだ

と言えるかもしれないが、実際にそのようなことはあると私も思う。

これは人間関係における「5-15-50-150-500の仮説」を念頭に置くと理解しやすいかもしれない。この仮説は以下のように説明される。

人間関係のパターンは5-15-50-150-500。

5というのは、精神的支えになってくれたり、困ったときに助けを求めることのできる相手の平均的な人数。家族とか親友とか自分にとって最も大事な人たちの数。

次の15というのは、社会心理学がシンパシーグループと呼ぶ人たち。家族や親友ではないが、その人が亡くなれば大きな悲しみを経験するような人の数。

次の50という数字は、比較的頻繁にコミュニケーションを取る人の数。

150というのは、いわゆるダンバー数。人間の頭脳の大きさで決まる数字で、一人ひとりの名前を覚えていて、だれがだれだかをはっきり認識できる人の数。 古代から中世にかけての集落の数は、だいたい150人だそうで、現代でも会社の事務所内の従業員の数が150人を超えると欠勤数が増えるという調査結果が あるらしい。

500というのはWeak ties、弱いつながり、と呼ばれるグループ。会ったことはあるけど、それほど親しくない人の数。人生を通じて500人以上の人と出会うわけだけど、実際に名前を覚えていられるのは500人程度だという。

こうしたことを思うと、私はやはり自殺者のことを思い浮かべずにはいられない。彼らにも家族や職場の同僚はいただろう。だがそれは本人にとって、自分の自殺を思いとどまらせるほどの「つながり」ではなかったということなのだろう。むしろそのような<つながり>を断つためにこそ、自殺するという行為を選ぼうとするのかもしれない。

しかし逆に言えば、もし彼らになんらかの「核」となるような「つながり」があったなら、自殺をしなくて済んだのではないかと私は思う。少なくとも私が今日まで生きてこられたのはそれがあったからだと言える。それがなければ、私も同じ選択をしなかったとは言い切れない。

だから、私はあなたにもそれを見つけてほしいのである。もしかしたらあなたにとって「核」となるのは、家族ではないかもしれないし、近くに住むひとでもないかもしれない。ネット上の関わりだけで、顔を見たことはないひとかもしれない。あるいは「ひと」でなく、「動物」だったり、「食べもの」だったりするかもしれない。しかしそれがなんであれ、私たちは生きるために、真剣にそれを探す必要があるのである。

もしそれがどうしても現在の環境で見つからないのなら、環境を変えればいい。住む場所を変えてもいい。職場を変えてもいい。世界はとても広い。いちどの人生ではとても味わい尽くせないほどに広いのだ。だからどうか、あなたも生きられる場所を探してほしい。

なぜ自殺すると変わることが極端に難しくなるかといえば、それは自殺が「究極の執着」だからである。翻って生きることは「変化」そのものだ。だからあなたも必要ならどんどん変化していってほしい。そして自分にとって本当に大切な「つながり」のなかで、笑って生きていられる未来を、選び取ってほしいのである。