「いのちの価値は平等でなく、高まったり低くなったりする」という価値観があることは無視できない

「いのちは最も尊いものであり、その価値は平等である」

というのは、私たちが実現を目指しているひとつの「理念」であると言えるだろう。しかし、「目指している」というのが暗に示唆するのは、

「実際の現状はそうなっていない」

ということだ。では、現代社会の、たとえば日本の現状はどうなっていると言えるだろうか?

まず、

「いのちは最も尊いものだ」

という理念を目指しながら、実際には衣食住を充たすためにもカネが要るようになっている。本当にいのちを最優先するのであれば、生活必需品は無償で得られるようにしてもいいはずだ。だがむしろ現在は、

生きていくためにも金が要るのだから、カネを得るよう努力しなさい!

とでも言われているかのようだ。だから、

いのちは最も尊いものなので、それを護るためにもカネを得よう

というのが現状だと言ってもいいだろう。

では、

「いのちの価値は平等である」

というのはどうだろう?これも現状に則しているとは言い難い。私たちは自らの「経済成長」のために、あらゆる動植物を「利用」しているのだから。それではせめて、

「人間の価値は平等だ」

とは言えるだろうか?確かに、私たちは長い時間をかけて様々な差別を無くしていこうとしてきた。「奴隷制度」も多くの地域では無くなっているし、少なくとも公然とにそれを生み出そうとするような動きに賛同が集まることはないだろう。

だがそれでも、意識的であれ無意識的であれ、私たちはやはり人間の価値を区分けしていると言わざるを得ない。それはたとえば「善人」と「悪人」という言葉にも端的に表れている。そして「悪人」は「善人」よりもいのちの価値が劣ると見なされている。逆に、ひとびとのためになると思われるような行為を積み重ねたひとは「善人」と見なされ、「素晴らしいひと」という目で見られる。これは言うなれば「いのちの価値が高まった」ということだ。だから、そんなひとが亡くなったときには、より多くのひとびとがより深く悲しむことになる。対して「悪人」と見なされたひとに対しては、周囲のひとびとはより「攻撃的」になり、それが強まれば「憎しみ」の対象にすらなっていくのである。

これは現在の私たちの社会を考えるうえで、とても重要な事実である。

「人間の価値は平等である」

というのは、その最初の時点(乳幼児)になら言えるかもしれないが、そこからは

「それぞれの行いによって、いのちの価値は高まったり低くなったりする」

というのが私たちの現在における暗黙の了解になっているからである。あるいはもしかしたら、「悪人の子」(たとえば犯罪者の子)は最初から他のこどもよりも価値が低いと見なされてしまうとすら言えるのかもしれない。

罪を憎んでひとを憎まず

という思想を実践するのは難しい。それに当事者の視点で言えば、そこで衝突しているのはまさしく「正義と正義」にほかならない。しかし私たちは自分を、あるいは自分の大切なひとを傷つけたり、貶めたりしたひとを「悪人」と見なし、それを許すことは容易ではない。このような心情はとても切実なものであるのだが、その「自然な感情」こそが争いの、そして「憎しみの連鎖」の始まりにもなってしまうのである。

正確な出典は憶えていないのだが、

我々(人間)には愛することはできない。愛は神の領域のものだからだ。だが、憎むのをやめることはできる。憎しみは人間の領域のものだからだ。

という言葉を耳にしたことがある。アイルランドの詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツのものらしい。だが「憎むのをやめること」すら、私たちにはとても難しい。だからこそ、私たちのいのちはいつまでも「平等」にはならないままで、世界から争いが絶える日はなお遠いのである。

私は自分のことを「善人」だとは思っていない。私によって傷つけられたり、私を憎んでいたりするひともいるだろう。それはもしかしたら私が自覚しているよりずっと多いかもしれない。それに私自身も、自分の大切なひとが傷つけられたとき、その相手を許せるとは言い切れない。過去のことも、完全に許せたのかどうかはわからない。ただ今の私にできることは、その私のなかに渦巻く感情と現実を無視しないということだけだ。そしてもしあなたが自分のことを「悪人」だと思っているのだとしたら、私が言いたいのは

それでも、生きていてほしい

ということだ。そして考えてみてほしい。

善とはなにか?悪とはなにか?ひとはどうすれば許されるのか?そしてどうすれば、自分自身を許せるのだろうか?

私はあなたの言葉を、聴かせてほしいと思う。