現代社会において、最も価値が高いものは、いったいなんなのだろうか?

現代社会の根底にあるもののひとつは「交易」であると言ってもいいだろう。私たちは独力だけで自分の生活に必要なもののすべてを調達することは難しいし、ひとりひとりやりたいことも好きなこともできることも違うのに、同じことを同じくらい上手くやるというのは難しい。だから私たちは、「交易」という手法を用いて生きることを選んだ。これにより、たとえば家を建てることが好きなひとは家を建て、食べものを作ることが好きなひとは食べものを作り、絵を描くことが好きなひとは絵を描き、それをお互いに与え合うことによって、全体としてそれぞれが生きられるかたちを築こうとした。これが「分業制社会」である。

そして、「家」・「食糧」・「絵画」のようにそれぞれ意味も用途も違うものを交換するときにその仲介役を果たすものとして私たちが生み出したもの、それが貨幣、つまり「カネ」である。この

「すべてのものをカネを仲介して価値付け、体系と序列を作り、お互いを交易する」

という行動様式(社会体制)を極限まで追求した結果生まれたのが、今や私たちの生きている社会のほぼ全域を支配した、「資本主義」であると言えるだろう。これにより、現代では私たちの身の回りにあるもの、あるいは私たち自身にさえもすべて「値付け」がされている。これはつまり「売り買い」の対象になるということだ。たとえ「仮想空間」のなかのものでさえ例外ではない。「ゲームのアイテム」にカネを払うことや、「SNSのツール」にカネを払うひとがいるのを見れば明らかだ。それにこの「市場」の力はときとして「法律」の力をも超える。たとえば「違法薬物」に「市場」があるというのはそういうことだ。ちなみに、

「私たち自身が売り買いされる」

というのは別に違法でもなんでもなく、公然と行われている。その場所を「労働市場」と言う。

さて、このような現代社会において、「最も価値が高い」(とされている)ものはいったいなんなのだろうか? 直接的な発想から言えば、現代資本主義では「最も高いカネを対価として要求するもの」が最も価値が高いのだから、それはもしかしたら「豪邸」かもしれないし、「超一流の芸術作品」かもしれない。または「核ミサイル」なのかもしれない。しかしここで発想を変えてみると、どんな「モノ」も本当に極限の状態では役に立たない。だから真に価値が高いのは「食べもの」だとも言えるかもしれない。あるいは「若さ」や「健康」、「自分を大切にしてくれるひと」といったものに最大の価値を感じるとしても不思議はない。実際、それは多くのひとに切実に求められ、大きな「市場」も形成しているのだから。

となるとこうしたことをすべて含んだうえで、最も価値が高いのは「カネそのもの」だと考えるひとも多い。交易の「手段」に過ぎないはずのカネ自身が最大の価値を持ち得るというのは奇妙でもあるが、「資本主義」のひとつの本質でもある。本来「家」と「食べもの」と「芸術」の意味はそれぞれ違うのだから、それに「価値の序列」を付けるのはできないと言ってしまえばそれまでであるが、それを強引にでも行ったのが「交易」であり「資本主義」であり、「カネ」である。だから、その「価値の物差し」(基準)である「カネ」こそが最も重要であるというわけだ。しかし、私のなかでの答えはこれではない。あなたはどうだろう? 先へ進む前に、少し考えてみてほしい。 そしてあなたは、果たして私の答えに納得してくれるだろうか?

魚を与えるのではなく、魚の釣りかたを教えなさい。

実のところ私の答えはすべてこの言い回しのなかにあると言える。この言葉の起源は中国だとも、ユダヤ教だとも、あるいはキリスト教だとも言われていて判然としないのだが、いずれにせよこれは私にとってとても大きな示唆を与えてくれるものである。

ちなみに、この言葉の起源を巡る議論については、たとえばこちらに詳しくまとめられていました。

つまり

現代社会において最も価値が高いもの、それは「情報」だ

というのが私の現時点での答えである。そして実際、情報は大きな価値を持つ。

どこに自分に合う仕事があるのか?

どこで食糧が手に入るのか?

どうすれば生きていけるのか?

自分はなにが好きで、どんなときに喜びを感じるのか?

こういった情報は、生きていくうえでとても大切なものである。

こういった情報は、あるものは他者から教えられることによって得ることもできるが、どうしても自分自身で答えを見つけるしかないものもある。それに、たとえ他者から教わったものであっても、その相手が正しいとは限らない。それは相手が意図的にあなたを騙そうとしているわけでなくても、相手の思い込みであったり、あなたの状況には適さないものであったり、あるいは真実の混じった誤りであったりすることもある。だからその意味で最終的には、どんな「答え」もあなた自身が見つけ出すしかない。その足跡こそが、あなたの「人生」となるのである。

そして言うまでもなく、私がここで発信しているのも、まさにひとつの「情報」である。現代が「情報社会」と言われるように、あらゆる場所で星の数ほど氾濫している情報のなかのひとつだ。この私の情報を有益と感じるかはあなたの状況によっても違うだろう。そもそも、私の情報に触れることすらなく一生を終えるひとのほうがはるかに多いだろう。だが、だからこそ私は私の情報があなたに少しでも力を与えるものであることを願う。情報とは、「発信者」と「受信者」がいて初めて意味を成すものだ。私は、私にできる限りこれからも「発信」を続ける。あなたがそれを「受信」して、私に「返信」してくれる。それがお互いの人生に新たな喜びを生み出す。今の私にとって、これ以上に価値のあるものは、他にはどこにもないのである。