もうずいぶん昔のことになるので曖昧な記憶しかないのだが、いつだったかテレビ番組かなにかで、
死者と交信できる電話があったらしあわせになれるか?
というような話題になったとき、そこで誰かが、
俺はそんなもの嫌だね。だってもしそんなもんがあったら、最初は嬉しいかもしれないけど、そのうち死んだひとに文句のひとつやふたつ言いたくなってくるだろうから。いちど仏さんになったなら、仏さんは仏さんでいてくれたほうがいい
というようなことを言っていたのが、今でも私のなかに印象深く残っている。
この発言が示唆しているのは、ひと言にまとめれば
「『死』によって、その存在は『聖化』する」
というような一種の死生観なのではないかと私は考えている。死によって、死者は「聖なる存在」(<神>、<仏>……)へと昇華する。そのことによって、生前の好ましい印象(想い出)は強められ、負の印象(想い出)は薄められる。しかしそれは故人がまさに「手の届かない存在」になったからでもあり、だからこそそれが「死者と交信できる電話」などによって「手の届く存在」になってしまったとき、故人は「聖なる存在」から「人間的存在」へと再び還元され、
そのうち文句のひとつやふたつ言いたくなってくる
というわけなのではないかと思うのである。
では、なぜ「死」にはその存在を聖化するはたらきがあるのかと考えると、その大きな理由のひとつに
死ぬことはかわいそうだ
という想いがあるとは言えると思う。死が「哀しいこと」であり、ひとつの「不幸」であるという前提があるからこそ、私たちはそれを与えられた存在を「聖化」するのである。
もちろんその度合いは故人の生前の行いや周囲からの評価によっても異なるだろう。しかしたとえ周囲から「悪人」と見なされるような存在に対しても、私たちは相手に「死」を与えるような行いには少なからず躊躇する。だからこそ、「アムネスティ・インターナショナル」のように
あらゆる死刑に例外なく反対する
という思想を持つひとびともいるし、実際に死刑が存在しない社会も少なくない。
このような私たちの(現代日本における多数派の)死生観(「死ぬことはかわいそうだ」)によって強化された「死の聖化機能」のすべてに問題があるとは思わないが、これはときとして遺された私たちに大きな困難ももたらす場合がある。これは特に故人が「非業の死」と見なされるような最期を遂げた場合に起こりやすいものでもあるのだが、遺されたひとびとが故人を偲び、
あのひとはもっと生きたかっただろうに……
などと故人の無念を強く慮るあまり、自分自身がその「止まったとき」に縛られてしまう可能性があるということなのである。
私たちは基本的に、「故人との未来の想い出」を持つことが難しい。これはそのひとの死生観にもよるのだが、「死」を「永遠の眠り」のように捉えていたり、あるいはそもそも「死後の世界」の存在そのものに懐疑的だったりする場合はなおさら、「故人の時間」はその「死」によって永久に停止したものとして受け止められる。そうなると必然的に故人を偲ぶときの想いは過去にさかのぼり、再び故人が死を迎える「そのとき」で止まり、ずっと「閉じられた世界」のなかで廻り続けるだけになる。そして、故人が自分にとって大切な存在であればあるほど、
あのひとは死んだのに、自分だけは生き残ってしまった
という想いは、いつまでも自分を縛る鎖になってしまいかねないのである。
しかし実際のところ、肉体を離れた存在は、そこまでにかかる時間の差はあるにせよ、いつかは自分の死を受け入れ、霊存在として生きるようになり、いずれはまた生まれ変わることになる。つまり彼らにもそれぞれの「未来」があるのである。だからこそ、彼らはいつまでも自分を想うあまり永い哀しみに浸り続ける肉体人を見て、
もうラクになっていいよ。なにより自分自身の人生を楽しく生きてほしい
というような想いを強くするようになる。これは私自身が対話した数多くの霊存在が実際に伝えてきたことなのである。
しかし、現代人の多くはそれを知らないし、信じようとしない。だから、
「故人を想う『愛』がときとして自らを縛る『鎖』となり、自分自身が未来へと歩む気力を失ってしまう」
といったことが起こり得るのである。だが、こんなに哀しいことがあっていいのだろうか?
だから私は、「死」というものはある意味ではそれを与えられた本人以上に、それを乗り越えて生き続けなければならない遺された人々にとってこそ、より切実な問題なのではないかと考えているのである。
そういう私自身も以前

とも書いたように、他者の死に触れて哀しまないことなどまったくできない。だが、そんな私もあるひとに強く諭されたこともあり、

なんとか未来に向かう気力を失くさずに生きられている。少なくとも、そうしようと努めている。それはいつも簡単にできるわけではない。だが私はあなたにも、少しずつでもいいから、そのように生きていてほしいと思っている。そしてなによりもまず、あなたの大切な故人にも「未来」があること、そしてあなた自身にもこれからの「未来」があり、あなたがそれを楽しく生きることを、他でもないあなたの大切なひと自身が強く願っているということを知ってほしい。それが私に託された願いでもあり、それを理解してくれたなら、そのときあのひともきっと、笑顔になってくれるのである。

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