「私はこの世、特に人間の世界は皮肉で出来ているような気がしてます」。この世界の「究極の謎」は私たちを惑わせ、突き動かし、そして成長させる

先日、読者の「さい」さんからとても興味深いメールをいただいた。そこで私はその内容をあなたとも共有し、ともに考えを深めるために、ご本人の許可を得て、その内容の一部をそのまま引用させていただくことにした。まずは、あなたにもこれを読んでみてほしい。

最近、私はこの世、特に人間の世界は皮肉で出来ているような気がしてます。

神様は、簡単には喜ばせてくれないし、かといって絶望すると、ちょっと光を見せてくれて。。。幸せと不幸が入り組んでて。。。

植物、動物を食べないと生きていけないし。

基本、人間界は楽な場所ではないようだし。

「神様は性格悪い」とか、「ギャグセンス抜群」と言ってる人もいます。

そんな矛盾や葛藤を乗り越える為の、この世なんですかね?

自分が成熟したら、この世も楽園に感じるのでしょうか。

もしかして、こんな人間を鍛える為に、闇や悪はあるんでしょうか。

この文章は一見とても簡潔に見えるが、実際にはとても含蓄のある深い問いが含まれていると私は思う。そしてこのような問いは少なからず私自身が向き合ってきたものでもある。それに対する現時点での私なりの見解は、これまでに書いたもののなかにも断片的に散らばっているとは思うのだが、せっかくの機会なので、今回はこのご質問について、正面から私なりの見解を述べてみたい。

今まで私は、「この世界の構造」といったものについて深くここで書くようなことはしてこなかった。それは端的に言えば、たとえば仮に地球が平たいとしても、私たちの住むこの大地が実は巨象と大亀に支えられているのだとしても、そのなかで生きる私たちの本質的な目的にはなんら影響を及ぼさないと考えているからである。

よく考えてみると、私たちが概ね<真実>だとして受け入れている「科学」で言われているようなことでも、後世になって覆ってみたり、あるいは現時点でも少なからぬ異議を唱えられていたりするようなものはたくさんある。その「異議」とはたとえば、

火星や月には高度な知性を持った存在がいることが確認されているのだが、パニックを避けるために隠されている

太陽はそれ自体が燃えているのではなく、単に光を放っているだけだ

などという言説が挙げられると思うのだが、それが正しいとしても間違っているとしても、私には現時点でそれを確かめる方法がないし、あなたにどちらかを信じてもらうよう勧めることもできない。

だが、私の人生の本質に眼を向けてみると、私にはなにより

「自分の人生を楽しく、できるだけ後悔の少ないものにして、笑ってこの人生を終える」

という重要な目的がある。そしてそれは、概ねあなたの目的とも合致していると言っていいはずだ。だとすれば、その目的に対して、たとえば

地球は球体なのか、楕円体なのか、あるいは平たいのか?

といったことは瑣末な問題である。それよりもずっと大切なことは、

「地球が破壊されれば私たちもこのまま生きてはいられない」

という単純な事実のほうだ。そしてきっと、私たちの未来の生きかたの根底を考えるうえでは、その認識が為されればまず充分なはずなのである。

私はこのような立場から、

「宇宙やこの世界の構造、あるいはその起源」

といったようなものには、基本的にそれほど深入りせずに済ましてきた。しかし、冒頭に引用したような問いに向きあうためには、この世界の性質について触れずにいることは難しいだろう。

だから私は、ここにこうしたかたちで直接的に書くのはおそらく今までにはなかったことだが、今回初めて

「この世界の起源と根本的性質」

といったものについて、私が現時点でそれなりに納得できている見かたを、提示してみたいと思う。これは私が普段書いているようなものよりも、さらに「根拠」に乏しいものである。だからあなたにこれを信じてほしいとはとても言えない。それどころかこの真偽を「検証する」手がかりもほぼ無いとすら言えるかもしれない。しかしもしあなたにその気があるのなら、この先の私の話を読んで「想像して」みてほしい。そして自分の心を見つめてみてほしい。なぜならもしなんらかの情報に触れたとき、そこに「真実」があるのなら、それはあなたの心の奥のどこかにも必ずなんらかのかたちで響くことになるからである。

さて、では最初にこう考えてみてほしい。

私はどうしてこのからだを持ち、このようにこの世界に存在できているだろうか?

するとこの問いに対して私はこのように答えることができる。

それは、私の両親がいたからだ

仮にこの先、人類が生殖技術を発達させ、いずれ今のような「両親」がいなくてもいのちを生み出せるような仕組みを作ったとしても、少なくともこのようには言える。

それは、私が存在するより前に「誰か」がいたからだ

これを細かいことを抜きにして最も単純に言えば、

私がいるのは両親がいたからで、その両親がいるのは祖父母がいたからで、その祖父母がいるのは曾祖父母がいたからで……

というわけで、これはおそらく多くのひとがいちどは考えたり言われたりしたことのあることではないかと思う。

しかしこうやって延々とたどって行くと、どこかでそれ以上はさかのぼれない、「原初の存在」に行き着くことになる。この存在を私たちはときとして<神>と呼んできた。そしてこの世界のすべてを創造したのはこの<神>であると信じるひとたちも数多くいる。

だが、ここであなたはこういった疑問を感じないだろうか?

では、<神>はなぜ存在するのか?<神>はいったい、どこから来たのか?

すると何度考えてみても、私はこう言わざるを得ない。

それは、誰にもわからない

ここでいう<神>とは「原初の存在」なのだから、<神>の前には誰も存在しなかったことになる。もしいたとしたらその存在が真の<神>なのだから、話は結局元に戻るだけだ。となるとその<神>は、私たちのように

「『自分より前に『誰か』がいたから自分が存在する』というように自分を規定することはできない」

ということになる。つまり<神>は、

「理由もなく、気付いたらそこにいた」

とでも言うしかない存在であるということになる。そしてだからこそ、

<神>はなぜ存在するのか? <神>はいったい、どこから来たのか?

という問いは、<神>自身にも、もちろんそれ以外の誰にも、答えられないのである。

この「自己の存在の由来がわからない」というのは、誰にとっても根本的な危機であり、不安の元である。しかし、<神>以外のどの存在とも異なり、<神>のこの「不安」は決して解消されない。だが、この「不安」、言い換えれば究極の「謎」が、この世界を生み出し、動かす原動力となっているのである。そしてこのことが意味するのは、この世界が「閉じた世界」ではなく、「開いた世界」だとも言えるものだということだ。なぜなら、「始まりがはっきりしない」ということははっきりとした「終わり」もないということだからだ。

このように考えると、この世界の根底には「永遠の謎」があり、この世界は<神>がその謎に迫り、自分自身(そして他者)を理解するため、そして自分が生まれてきたことに喜びを見出すために存在するとも言える。そしてこの性質は、そのまま私たち自身の人生の目的とも合致するものだと言えるはずだ。

だからこのような意味では、私たちの悩みはそのまま<神>の悩みであり、私たちがこの世界をより深く理解し、生きていることに喜びを見出すことができれば、それはある意味「<神>のため」にもなるということなのである。もちろん守護霊でも<神>でも友人でも、その存在を尊重し敬うことは大切なことだが、本質的な意味においてはそこに「上下関係」のようなものはないというのもひとつの事実なのだ。

では、ここでここまで述べたことを冒頭で引用させていただいた疑問に則しておおまかにまとめてみると、次のように言えるだろう。

この世は(「皮肉」というよりも)「謎」でできている。だから、矛盾や葛藤があるのは避けられない。しかしこれは<神>やなんらかの「上位の存在」が私たちを試したり困らせたりぬか喜びさせたりするような目的でそうなっているのではない。だから、彼らの「性格が悪い」わけでも「ギャグ」に付き合わされているわけでもない。誰かが誰かを鍛えたり試したりしているというよりも、「闇」も「悪」も<神>すらも含めて、誰もがこの世界によって育てられ、成長させられているということだ。

そんな世界を楽しみ、「楽園」と感じられるようになるのは誰にとっても簡単ではないが、自分が成長するにつれ、自然と喜びは大きくなっていくだろう。逆に言えば、自分が感じられる喜びが大きくなったということは、それだけ自分が「成長」(成熟)したのだといってもいいだろう。

私の師は以前このように語っていた。

自分が生きてみたいと思うような世界を創らないで、苦しみや罰を与える目的で世界を創るなんて、私なら絶対にしない。どうせなら楽しくてやりがいのあるものにしようと思うはずだ。だからきっとこの世もそうなっているはずなんだよ。そう思わないかい?

もちろんはじめに書いたように、これはあくまでも現時点での私の「見解」であって、絶対的な「真実」だとは言い切れない。だが、少なくとも私の考えかたのなかでは、絶対の「答え」を持っているような存在はどこにもいない。だが、多くのひとの考えや体験を持ち寄ることで、限りなくそれに近づき、喜びを大きくすることはできるはずだ。それが私にとってのこの世界の存在理由であり、『闇の向こう側』を開設した理由でもあるのである。

と、こうして書いてみるとやはりとても長い文章になってしまったが、時間のあるときにでものんびりと読んで、じっくり考えていただければと思う。なお、まだ冒頭で引用した主題のうち、

「植物、動物を食べないと生きていけない」

という部分には触れることができていないのだが、そこまで書くとあまりにも長くなってしまうので、それは次回に、まとめてみたい。

続きは、こちらに書きました。

先日私は読者の「さい」さんからいただいたメールを受け、それに対する私なりの見解をまとめてみた。だが、そのとき「植物、...

コメント

  1. さい より:

    私の疑問に答えて下さり、ありがとうございます。

    「謎」っていう言い方はいいですね。

    法則も分からないし、矛盾だらけのカオスで皮肉に見えてた世界が

    「謎」だと思うと、落ち着きます。

    まだ、気付けていないだけ、という感じです。

    「どうせなら楽しくてやりがいのある世界にしようと思うはず」という師匠の言葉も、
    そうだろうなあ。と思えます。

    人間て、あるがままだと、喜びの方に傾いているらしく、
    赤ちゃんや子供は楽しそうだし、頭の中も青空のようにスカッとしてますよね。

    自然本来の姿があんな感じなら、やっぱり、喜びに向かってるんだと思います。

    では、生きる程、困難に会い、その中で成長させられるのが、この世でしょうか。

    私は、まだ喜びを実感できる程、成長してないようですが、

    思えば、受身で、外から来る事に反応するだけ、という人生態度が
    自分を苦しめていたと思うので、

    これからは、自分の中の「自然本来の姿」を意識して、

    喜びの方向に向かって行ければいいなあ。

    と思ってます。

    • Dilettante より:

      さいさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      もしこの世界のすべての「謎」が完全に解き明かされてしまったなら、その時点で世界は「完結」してしまいます。そして極端に言えば、そのときには「正しい生きかた」というものが定まってしまい、世界の多様性が限定されるようなこともあり得るでしょう。

      ですが実際には、この世界には文字通り「誰にも解き明かせない究極の謎」があるために、永遠に完結することのない、矛盾と葛藤に満ちた、しかしだからこそ多様性と美しさもある、このような世界が展開されているということになります。

      そう考えるとやはり私も、この世界に「謎」があることは尊いことだという結論に行き着くわけです。

      と言いつつ、私も日々惑い苦しみ、そのなかで時折垣間見える喜びと、なにより他者の支えによってなんとか生きられているというのが現状です。

      しかしなんと言っても、私の師は

      楽しくないのなら、なにかが間違っているんだよ

      と微笑みながら言うようなひとでしたので、やはりこの世界の根底には「喜び」があるという考えが私のなかに染みついていて、それが私のひとつの基盤になっているとは言えると思います。

      私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。楽しいかい?私は...

      そして確かに、赤ちゃんやこどものころは喜びを感じやすかったのが、「大人」になるにつれて数々の「壁」に突き当たり、その力を失ってしまうという面はあるでしょう。

      しかし、その「壁」を乗り越えたうえで再び「喜び」を感じられたなら、それは単に「こどもに還った」のではなく、それ以上に「成長した」ということなのだと思います。

      ですから、

      生きるほど困難にも遭うけれど、だからこそ喜びの質も深まる

      と考えれば、年を重ねるのもそんなに悪くないと思えるはずです。

      それにこの世界には「正しい生きかた」も「絶対の答え」もないのですから、たとえば疲れたときには

      「受け身に、風まかせ」

      に生きるのもいいと思います。

      そしてそのうえで、ときには自分の視点から、なにかを「表現」してみてください。それはなにかを「選択する」ということでもあります。それはときとして葛藤や困難も伴うでしょうが、そのとき世界にはまた新たな「彩り」が添えられ、それに伴う「喜び」も、きっと生まれてくることでしょう。

  2. さい より:

    Dilettanteさん

    返信、ありがとうございます。

    「楽しくないのなら、何かが間違っているんだよ」

    という言葉は、以前の記事にも出ていて印象深かったので、たまに思い出しますが、何が間違っているのか考えても分からない。

    という事が多く、困っていました。(あと分かっていても、できない、とか)

    でも困ったあげく、18年程前に買った本

    『リチャード・カールソンの楽天主義セラピー』

    を、ここ数日でまた読み返しましたら、

    気分の悪い時に、いくら考えてもいい解決策は涌かない。なぜならそれは歪んだ思考だから

    悪い気分(感情)は自分の思考から生まれる

    思考は自分の価値観から出来ている

    思考は勝手に湧くものだが、その後、感情に変化する前に選べる

    →→→自分を落ち込ませる思考を膨らませる(その事について考え続ける)

    自分を落ち込ませる思考が生まれた時にいち早く気付いて、スルーする(やり過ごす、焦点を合わせない)

    「自分を落ち込ませる思考をスルーする事を覚えると、思考というのは、来ては去っていく性質があるので

    そのうち、自然本来の力が働いて気分が良くなる(幸せを感じ始める)。なぜなら人間は本来、喜びの方に傾いているから」

    気分のいい時の考え、閃きは、歪みがないので信用できて、問題解決にも役に立つ

    という事を書いていて「なる程~~~自分の苦しみは、この思考から派生した感情や否定的思考に巻き込まれ、増幅した結果だったのか~~~!!」と気付きました。

    (この本は、現在の主流の心理学の逆の説「トラウマや否定的思考に焦点を合わせない・スルーする」を唱えていて、斬新なのですが、あまり売れず、今は増刷されてません。。。私も、18年も前に買っておきながら、実践できずに放置してました。当時は理解できなかったんだと思います。)

    もしかして

    「楽しくないなら、間違ってる」

    とはこの事ですか!?

    と思ったくらいです。

    今は、この本に習って、モヤモヤをスルーする、をやってみています。

    風まかせに生きるのは、実は結構やっていまして、、、(笑)

    それをやるとスグ怠け心に負けて怠惰になっていました。

    (今考えると否定的思考が強すぎて、ヤル気を失ってる状態ですが)

    表現は、仕事にした位ですが、生活に困窮して、

    余計病んだりして、、、(苦笑)

    でも、自分なりの表現をしつつ経済も得る。のが目標です。

    私は、生きる事に疲れすぎて「どうなってるんだよ、この世ってーーー!?」「とにかく色々辛いわーー」

    と思いDilettanteさんの記事を読み、コメントをしましたが、

    誠実に答えて下さるDilettanteさんや、上記の本を読み、実践する事で

    なんだか、またやれる気がしてきました。

    ありがとうございます。

    • Dilettante より:

      私は今までその本も著者も知らなかったのですが、さいさんが引用してくださった

      思考は勝手に湧くものだが、その後、感情に変化する前に選べる

      という表現は、言葉選びこそ違いますが、おそらく私の考えとも限りなく近しいものだろうと思います。

      またそのあとの、

      気分のいい時の考え、閃きは、歪みがないので信用できて、問題解決にも役に立つ

      というのは、私なりに言い換えれば、逆に

      考えて気分が好くなるような閃き(発想)は、きっと問題解決にも役に立つ

      とも言えるのではないかと思います。

      これは師の言葉を言い換えて、

      楽しいのなら、きっと間違っていない

      という発想です。

      とはいえいつも言っていることですが、私自身が誰よりも、師の言葉をどう実践できるのか悩んできたひとですし、

      「自分なりの表現をしつつ生活費も得る」

      というのは私にとっての課題でもあります。

      だからこそ、よろしければこれからもともに悩み、考え、表現し、体験を持ち寄っていけたらと思います。その先に見えてくるものこそが、きっと多くの存在が、見たがっているものなのですから。

  3. さい より:

    「考えて気分がよくなる閃きは、きっと問題解決にも役に立つ」

    なるほど。そうだと思います。

    それには自分に謙虚さと愛が備わっていないと、ですね。

    自分の経験も役に立てる時がくればいいなあ、と思います。

    • Dilettante より:

      少なくとも私にとっては、さいさんの経験(行動)はもう役に立っています。

      この文章もさいさんのおかげで生まれたのですから。

      それにあらゆる存在はそれ自体で周囲になんらかの影響を及ぼしていることは確かです。

      ですから余計な気負いを持つ必要もありませんので、ご自身のリズムで穏やかに、生きていてくださいね。