「食べる」という行為が「相手の一部を取り込む」ということだとすれば、それはなにを意味するのか?

先日私は読者の「さい」さんからいただいたメールを受け、それに対する私なりの見解をまとめてみた。

先日、読者の「さい」さんからとても興味深いメールをいただいた。そこで私はその内容をあなたとも共有し、ともに考えを深めるために、ご本人の許可を...

だが、そのとき

「植物、動物を食べないと生きていけない」

という部分については、文章量が多くなるので書かないで保留していた。そこで今回はその「食べる」という行為について、私なりの考えを書いてみたいと思う。

現代は「グローバル時代」なので、特に日本のような「先進国」では、もしその気になれば国内外ありとあらゆる食品を取り寄せて食べることができると言ってもいいだろう。メディアでは多くの時間を割いていろいろな「美味」の紹介に力を注いでいるし、「お取り寄せグルメ」は通信販売などでもひとつの大きな柱となっているように思える。

しかし、どんなに世界がつながったように見えても、

なにを食べ、なにを食べないか?

というのにはまだ大きな「地域差」、そしてその社会集団の価値観を反映した「文化差」があるのは確かだ。そして、日本も「食の西洋化」が進んでいると言われるようになって久しいとはいえ、それでもまだ「ご飯」と言えばおそらく「米」を連想するひとが多いとは言ってもいいだろう。そこに「パン」や「麺類」を加えれば、多くのひとの主食を網羅できるかもしれない。しかし、世界に眼を向けてみればそれは必ずしも普遍的なものでないことはすぐにわかる。たとえばタピオカやタロイモを主食とする社会もあるし、主食ではないにしても、犬や猫を食べものとして扱う社会もある。だからやはり、「なにを食べ、なにを食べないか」というのはその集団の「伝統」と「風習」、そしてそのなかで育まれた(多数派の)「価値観」を反映したものだと考えることはできるだろう。

しかし、どんなに文化が違おうとも、肌の色や見た目に差があろうとも、私たちが「ヒト」という同じ種族である以上、生きるためにどんなエネルギーが必要かということには基本的にある程度の共通点があるはずだとも考えられる。そしてその考えかたから生まれたのが「栄養学」である。その「栄養学」はひとつではなく、多少の差異があるのだが、現代の日本で言えばたとえば「カロリー」や「タンパク質」などを基準にして、「望ましい食事」の在りかたが描かれ、場合によってはそれを基に「食事指導」などが行われる場合もある。

肉、魚、野菜をバランスよく食べてくださいね

というように。

だがここでもう少し根本的な部分に立ち返って考えてみると、「食べもの」とはほぼすべてが「いのち」であると言える。私たちはみんななんらかの「他者」からもらった「いのち」をエネルギー源として生きているのである。そして現在は火葬が一般的になったためあまり想像しにくいかもしれないが、長い目で見ると私たちのいのちもまた誰かのエネルギー源として摂取されることになる。つまりそうやって、すべてのいのちは「循環」しているのである。

ではここでもう少し深く考えてみよう。すると

「いのちをいただく」ということは「相手の一部を取り込む」ということだ

とも言える。これはたとえば「臓器移植」を受けたひとがその臓器の持ち主の一部をもらい受けたと言えるのと本質的には同じことである。だから、たとえば私が牛を食べたとすると、それはその牛の一部が私のなかに取り込まれるということだ。もちろんその牛の「生前の想い出」や「記憶」といったものすべてが入り込むわけではない。しかし、やはりその牛の「想い」、特に「死の直前の想い」はそこに深く刻まれているので、私だけでなく誰がそれを食べたとしても、それはそのひとのなかに取り込まれることになるのである。

このことを受け入れると「菜食主義者」がなぜ存在するのかという意味もより深く想像できるかもしれない。以前

あなたは、「菜食主義者」と聞くとどのようなイメージを持つだろうか? 信仰者、アレルギー体質、動物愛護家、あるいは、偏執者……。日本人の多くは...

でも触れたことだが、「肉を食べない」という選択は単なる「個人の信条」の問題というだけでは片付けられない複雑な要素を持っている。しかし、「食べる」という行為がいったいなにを意味しているのかに深く想いを馳せれば、私たちの食の在りかたは大きく変化することになるだろう。

私自身はといえば、霊的世界に触れる前には

肉を食べないと栄養失調を起こすか、エネルギーが足りなくなるか、どちらにしろなんらかの不都合が生じるものだ

と思い込んでいた。だが、それがまったくの杞憂であることはその後の生活においてはっきりと証明されることになったのである。

ただ、こういったことを言うと、

では、なぜ動物は食べないのに植物は食べるのか?どちらも同じいのちなのに、結局は偽善ではないか?

というような意見が出てくることもあるだろう。だが、これは実のところそう難しい問題ではないのだ。なぜなら、「植物と動物は食べられてもなお共存できる」からである。植物はそれ自体では動くことができないが、動物に食べられ、取り込まれることで「移動する」ことができるようになる。そして、動物の排泄物に入り込むことによって、種子を遠くまで運ぶこともできるのである。

このような仕組みについてはたとえば

動物による種の散布のページでは植物は種をどのように動物に散布させるのか紹介しています。 植物は移動能力がないので様々な方法で種を散布しようとしますが、その一つが動物を利用することなのです。

にもまとめられています。

つまり、「植物を食べる」ということは、植物の目的や利害、あるいは想いといったものと相反するものだとは言い切れないということだ。そしてこれが、動物を食べる場合とは決定的に異なる点なのである。

だが、

それではたとえば極寒地に住むひとびとのように、どうしても肉を食べる以外に食糧を得るのが難しいひとたちはどうするのか?

というような疑問もあるだろう。しかしそのようなひとたちこそ、「狩りの作法」や「痛みを少なくする殺しかた」、あるいは「動物に対する敬意と感謝」を最も深く持っていることを考えてみればいいと思う。だから結局最も大切なのは、

菜食主義者のほうが高位だ

など考えたり、誰かのいのちを奪わなければ生きていけない自分を責めたりするようなことではなく、

「『食べる』ということの持つ意味を知り、受け入れること」

なのだと私は思う。そしてそのうえで、それぞれが自分の状況において、自分の生きかたを選択すればいいのである。

そういう私自身もいつも反省しているのだが、私もやはり少しでも「自分の食べたものに恥じない生きかた」をしたいと思っている。そして広い意味では、私も日々、誰かに「食べられて」いる。それは私の血を吸う蚊などもそうだが、それだけでなく実のところ、

「あなたも私を食べている」

のである。なぜなら私の書いたものを読み、そこからなんらかの影響を及ぼされているのなら、それは「私の一部があなたに取り込まれている」ということだからだ。ならば私はあなたを元気づける「食べもの」でありたいと思う。それは簡単なことではないが、もしそれが少しでもできたなら、そのときはきっと私に食べられてきた存在たちも、少しは私を認め、私とともに喜んでくれるのではないかと、そう思っているのである。

コメント

  1. さい より:

    Dilettanteさん

    「食べる」という事についての質問に答えて下さり、ありがとうございました。

    「自分の食べたものに恥じない生き方」

    >その通りです。

    それが出来ていないから、私は命を食べる事に罪悪感があるのかも知れません。

    飢えた事が無いから、真に感謝もできないし、

    添加物だらけの食品も、好物のくせになかなか「有難い」と思えなくて。。。

    唯一実践してるのが、自分の前に来た食べ物は、残さない事位です。

    それ位の気持ちしか無いのに、

    「いのちを食べなきゃ生きていけないなんて、残酷な世界だな~」とか

    「殺して食べるなんて、業が増えるように仕組まれてるのは、、、つまり生きるってどういう事だ!?」

    と思ってました。

    たぶん、食べて、生きるのには

    それなりの覚悟や志が必要なのかも知れませんね。

    そういえば、動物界の食物連鎖の頂点のひとつである「鷲」は

    ものすごくプライドが高くて気高いので、

    死ぬ寸前まで、絶対に弱みを見せずキリッとしている。

    と聞いた事があります。

    人間は鷲以上の誇りを持ってるはずだから、

    さらに高い精神性があって然るべきなんでしょう。

    そこまでたどり着ければ、

    今までの「いのち」も無駄にはならず、

    「殺して食べる業」以上の「生かす」という事が

    出来るのかも知れません。
         ↑
    考えてみれば、単純な事でしたが、

    Dilettanteさんの記事をきっかけに

    自分なりに「食べる」という事について納得できました。

    世界は弱肉強食かも知れませんが、

    より「生かす」方を目指せば、将来的に(業を浄化する意味でも)

    自分の満足が得られそうな気がします。

    そうは言っても私の「生かす」は、

    まだまだ自己中な自己実現とかなので、

    まずは食べ物に感謝したいと思います。

    「誰かを元気付ける食べ物でありたい」もいいですね!

    食べられる側に立った意見は斬新でした。

    こうあれたら、いいですね。

    • Dilettante より:

      さいさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      「自己中心的」という表現は現在悪い意味で用いられることがほとんどですが、考えてみれば私たちは「自己を世界の中心において生きる」以外に方法はありません。我が身をつねってみても「自分にとっての」痛みしかわからない以上、相手の痛みとそれが同じだとは誰にも言えないからです。

      しかし、それでも「自己」と「他者」の間にはなんらかの「共通点」あるいは「影響関係」があることに気付けば、「自分のなかに他者が含まれ、他者のなかにも自分が含まれている」ということが実感できるようになるかもしれません。
      するとそこから、

      「自己を中心にしながらも他者を想像する」

      ということができるようになる可能性があります。

      これは誰にとっても簡単なことではありませんが、だからこそ私たちが生きるうえでの主題のひとつだとも言えるでしょう。

      それから食べものの大切さを実感するために「飢え」や「断食」といったものまで体験することもないとは思いますが、「食べる量を減らす」ことは少なからず意味があるかもしれないと思います。

      たとえば私もほぼ毎月、月に10日ほど実践しているものに「七号食」がありますが、興味があればいちど調べてみてもいいかもしれません。

      どちらにしても決して無理をする必要はありませんので、さいさんがご自身の歩調で、穏やかな毎日を過ごされることを願っています。

  2. さい より:

    Dilettanteさん

    自己を中心にしながらも他者を想像する

    >できるようになりたいです。

    生活している以上、仕事をして他者からお金を頂いてるので、他者を喜ばせつつ、自己実現もできるようになるのが理想です。。。他者を想像しないと、生きてはいけない仕組みになってますね^^。

    七号食>検索しました。

    こんなデトックス法があるのは知りませんでした。

    私は現在、野菜多め、自炊の1日2食ですが、まだ、あまり体調が良くないので、食品添加物を疑っていました。この七号食は添加物も取らないし、なかなか良さそうだと思いましたが、10日も玄米食オンリーは勇気が出ないので、できそうなら、2、3日チャレンジしてみます。

    ありがとうございました。

    • Dilettante より:

      七号食は細かい点ではひとによって実践法に多少の違いがありますが、私の場合は玄米にごま塩を適量振りかけたものを1日に数膳、2食に分けて食べるということをしています。

      私はこの七号食の主眼は

      「過食を改めからだをいたわること」

      にあると考えているのですが、実際これによってからだは休まると私自身は実感しています。

      また、調理や食後の片付けにかかっている時間を他に振り分けられること、そしてなにより通常食に戻ったときに喜びが深まることなど、肉体的な面以外にも得られるものが多いように感じています。

      最初は特に無理はしないほうがいいとは思いますが、ご自身が続けられる内容と頻度でじっくり取り組んでみることを前提にするなら、さいさんもいちど試してみてもいいかもしれません。

  3. さい より:

    7号食>

    ハイ。そのうち試してみます。

    去年、仕事が激務だった頃、昼は自炊、夜は高カロリーな出前を食べ続けていたら、病気寸前まで内臓が弱ってしまい、今だに体調が戻らなくて「今度忙しくなったら乗り切れるだろうか?でも毎食自炊もできないし」と仕事への意欲まで失いかけていました。

    それで、7号食の食べ方としては邪道かも知れませんが、忙しい日は、夜だけ玄米食もいいかも知れない。とも思いました。(とにかく今までは出前とコンビニしか選択肢がありませんでしたから)

    ともあれ、まずは玄米を食べてみて、慣れないと始まりませんね。

    情報、ありがとうございました。

    • Dilettante より:

      七号食は広い意味での「玄米食」あるいは「自然食」といったものから派生した養生法のひとつななので、固定された型に縛られる必要はありません。

      ですからさいさんもおっしゃるように、まずは「玄米食」そのものに触れてみるところから始めるのもいいと思います。
      ただ、今までずっと白米食に慣れていて、しかも内臓に不安がある状態なのでしたら、いきなりの玄米食は却ってからだの負担になる可能性もありますので、まずは「玄米粥」などから始めてみるのはいかがでしょうか?味が薄いようでしたら梅干しや海苔などと合わせるのもいいかと思います。

      いずれにせよ、さいさんが自分なりの方法を見つけて、心身ともに少しでも元気になることを、私も心から願っています。