かつてないほど「小さくなった」世界で生きる私たちと、霊存在との共通点とは?

私たちは普段幾重にも折り重なった「社会」のなかで生きていると言える。それは「家族」だったり「国家」だったり「文化圏」だったりするのだが、それは個人にとってはあまりにも大きな「世界」を理解し、そのなかでお互いを助けあって生き抜いていくためのひとつの知恵であるとも言えるだろう。それにある程度昔であれば、自分と違う「社会」で生きるひとびとのことを意識したり、あるいは実際に交流したりするようなことはそれほど多くなかったかもしれない。世界は広く、未知にあふれていた。

しかし、現代はそうではない。「グローバル社会」を生きる私たちは、諸外国で起こる出来事もかつてないほど早く知ることができるし、知ることを求められているとも言える。「地図アプリ」などを遣えば日本にいながらにして外国の風景を楽しむこともできる。メールは基本的に瞬時に相手に届けられるし、自分の知らない言語で書かれた情報でさえ、ある程度までなら機械が翻訳してくれる。

こうしてみると、私たちは「グローバル社会」が願ったように、世界(異なる社会)をつなげ、ある意味で「小さくする」ことに成功したとも言えるだろう。私だってその気になれば、日本にいながらピサの斜塔に最も近いパン屋の名前を調べることだってできる。私たちはそうして、

「世界の『謎』(未知)を少しずつ『知っていること』(既知)で埋めることができるようになった」

のである。

ところで、こうした状況にずっと以前から慣れ親しんできた存在がある。それが「霊存在」である。彼らは行きたいと思ったところにすぐ行くことができる。宇宙から地球の姿を眺めた後、東京の雑踏を観察し、それに飽きたらピラミッドの頂上からの景色を楽しむこともできる。それに本人が望むなら、好きなものを食べながら映画のように世界の歴史を見ることだってできる。まさに霊界ではすべてが「想いのまま」なのである。

そう考えると、霊存在は確かに私たち以上に「自由」なように思えるかもしれないが、私たちも霊存在にそれほど引けを取ってはいないのではないだろうか?もうすでに、世界のほとんどは「掌の上」に収まりつつあるとすら言えるのだから。

しかし、そんな私たちが必ずしも現状に満足したり、喜びを感じていたりしているわけではないように、霊存在も自分がそれほど満たされていると感じているわけではない。なぜなら、彼らの体験のすべては、ある意味で「疑似体験」にすぎないからである。私がネット上で歌舞伎町を歩いてみたり、ルーブル美術館の外観を眺めてみたり、あるいは高名な料理店の自慢のひと品の写真を見てみたりしたとしても、それは決して私の「体験」にはならない。それはインターネットでもテレビでも友達のおみやげ話でも同じである。そして、それと同じことが霊存在の経験にも言えるのだ。なぜなら、そこには「体感」や「実感」が絶対的に欠けているからである。

「疑似体験」にまったく意味がないとは言わない。霊存在に楽しみがないとも思わない。疑似体験をすることや誰かの体験を共有することは、「知識」や「共感」、あるいは「想像力」といったものを高めることにもつながるだろう。確かにそれも大切なことではある。だが、それが「自身の体験」でない以上、それはどこまで行っても「二番煎じ」を超えるものにはならないのだ。

だからこそ、霊存在は、そして私たちは、何度も生まれ変わるのである。そしてせっかく生まれてきたのだから、私たちはそれぞれの「体験」をいちばん大切にしたほうがいい。それは別に

歴史に残る偉業を達成する

秘境を旅する

などといったことに限らない。あなたのその「日常」で見たこと、聴いたこと、感じたことのすべてがなにより貴重なのである。それを得るためにこそ、私たちはこの世界に生まれてきたのだ。私は地球の直径を知っているが、地球のことはまだほとんど知らない。自分の年齢は知っているが、自分のことを知り尽くすまでにはほど遠い。世界がどんなに小さくなったように見えても、そこにはまだまだ多くの「謎」が潜んでいるのである。

だから、私はまだ最期まで生きていたいと思う。そして肉体を離れるときが来たら、私なりのみやげ話を多くの霊存在に語り、ひとしきり想い出にひたり、そして霊存在としての生活を存分に楽しんでから、いずれきっとまた、生まれ変わることだろう。そのときそこにある世界がどんなものであろうと、私が生まれ変わることを止めるとはどうしても考えられない。生きることはときとして苦しいことでもあるが、ここでこうして生きていなければ、私はあなたに逢えなかった。ただそのことを思うだけでも、私はやはり生まれてきてよかったと、そう確信しているのである。