今日もまた生き抜くために。「強い運命」というようなものはあるとしても、「主体」が自分にあることは忘れないでほしい

前回、自分が孤独で生きる気力も持てないと感じたようなときには、守護霊の存在を思い起こしてほしいと書いた。

先日私はある読者のかたからメールをいただいたのだが、その内容は私も含め多くのひとたちがいちどは考えることなのではないかと感じられるものだった...

これはある読者のかたからいただいたメールをきっかけに書いたものでもあるのだが、それを公開する前に、私はその読者ご本人にも直接メールで返信して私の考えを伝えていた。すると、そのメールにはさらに返事が返ってきたのだが、その内容はやはりまた私も含め多くのひとにとって考えるところの多いものだと感じられるものだった。

そこで、今回もまたご本人に了承を得たうえで、その内容をあなたとも共有したいと思う。それは、次のようなものだった。

無意識に交流があるということは

守護霊には大変悲しい思いをさせているのかなと思います。

私は毎日のように死にたいと思っていますが

自殺をしないのは守護霊が生き抜く力を与えてくれているからでしょうかね。

最終的に自殺を選択する人もいますが

それは守護霊の力の範疇を超えたということでしょうか。

それとも第一選択として受け入れたのでしょうか。

どちらにせよ、そこまで追い込んだ環境や運命は

自ら望んだものなのでしょうか。

自殺するために生まれてきたのではないとしたら

自らの決めた運命に殺されるということですよね。

このような問いに答えるためには、まず「運命」とはいったいなんなのかから考えなければならないだろう。ただ、「運命」あるいは「宿命」などといったものをどう捉えるかについては昔から数多くの議論があって、未だ統一された見解というものはない。だからこそ私も今まで何度も「運命」について書いてきたのだが、

あなたは「運命」を信じているだろうか? もし信じているとしたら、「どこからどこまで」が運命だと思っているだろうか?あるひとたちは、 す...

ここで改めて私なりの考えを書いてみたい。

まず、私たちがなぜこの世界に生まれ変わってくるのかといえば、それは

「なんらかの『やりたいこと』(体験したいこと)があるから」

と言ってもいいだろう。そして、確かに私たちは、生まれる前に自分が生まれる環境、たとえば時代や場所や家族(両親)などを、ある程度自分で決めて生まれてくる。それに自分の肉体に大きな影響を与える「遺伝子」などは両親から受け継ぐのだから、ある程度の「顔立ち」や「才能」などもこのとき自分で決める範囲に含まれると考えてもいいだろう。肉体の頑健さの度合い、遺伝子の情報、あるいは生まれる環境や衛生状態によって、ある程度の「寿命」も左右されるとも言える。こういったものを総合して、私たちの「運命」ということはできると思う。

だが、だからと言って私たちのすべての行為が「運命」によってあらかじめ決まっているということはない。もしそうならすべての人生には本来的な意味での「発見」も「謎」もないということになり、私たちの存在の根本的な価値(醍醐味)がないということになってしまう。

だからこそ、実際には私たちには「主体」がある。たとえば今晩の食事をなんにするか、それはあなたが決めることだ。もちろん、ときには一緒に食事するひとの意向と調整する必要があり、すべてがあなたの一存によって決まりはしないような場合もあるかもしれない。しかし、それも「集団での選択の結果」であり、「運命」によって定められていたものではない。そして、「食べもの」や「生活習慣」などは中長期的なあなたの「健康状態」を左右しうるものでもある。つまりこれは、「現在」が「未来」を変えるというひとつの例であると言える。

私たちは人生の始まりにおいて、自分で決めた「運命」に大きな影響を受ける。そして、たとえばこの時代で言えば、長くても生まれてから100年ほどでその生を終えるだろうと予測することもできる。だが、たとえ「始まり」と「終わり」があらかじめある程度決まっていたとしても、その過程には私たちそれぞれの選択によって多様な変化の可能性がある。ここに私たちの「主体」が発揮される余地があるということだ。たとえなんらかの「才能」があったとしても、それを開花させることができるかはまた別の話だし、最初は「才能」がないと思われたことでも、自分が好きで長く続けるなかで相当なレベルにまで達することができることもたくさんある。

好きこそものの上手なれ

努力できること、努力を続けられることも才能だ

などと言われるのはそういうことだと思う。

だが、たとえ私たちの「主体」に大きな力があることが確かだとしても、ときに私たちはどうしようもない「大きな流れ」のようなものを感じることもある。だとしたらやはり生まれた後に現れる「運命」というものがまったくないとは言えないと私も思う。

では、たとえば私がなんらかの生活習慣病に罹り、実は私がもともと遺伝子的に他者よりもその発病可能性が高かったと判明したとしたら、私がその病に罹ることは「運命」だったと言えるのだろうか?いや、それはやはり私の「選択」の結果だろう。たとえその病に罹りやすい「因子」を私が持っていたとしても、生活習慣などによってそれらを「病」というかたちに表面化させないことはいくらでもできた可能性があるからである。

私たちの目の前にはいつもたくさんの「可能性」が開かれている。そのなかで私がたとえば「暴飲暴食」を選び、それを続けたとしたら私は高い確率で健康を損なうことになるだろう。しかしその

「暴飲暴食によって健康を損なう」

という結果は、あくまでも数ある「可能性」のなかのひとつに過ぎない。それは私が「暴飲暴食」という選択をしなければ回避できる。つまり、それは言ってみれば(変化・回避が可能な)「弱い運命」である。

では、それに対して「強い運命」とでも言えるようなものがあるのかと言えば、おそらくあるのだと思う。それは私たちがそれぞれ、

「途中どの分岐点を通ってきたとしても必ず通過する場所」

のようなものだ。そしてその存在は多くのひとが感覚的に感じ取っているものだ。私たちはそれをときに「運命の出逢い」などと呼ぶ。それはひとかもしれないし、職業かもしれないし、場所かもしれない。だがなんにせよそれはあなたの人生を劇的に変化させる。そしてそれは、多くの場合あなたが生まれる前から求めていた体験、理解したいと思っていた心情、あるいはあなたの「役割」に、強く関わっている。だからたとえば先に挙げた生活習慣病の例でも、もし私がその病をきっかけに自分の人生を見つめなおし、他者にその体験を伝え、なんらかのかたちで誰かの喜びを深めるようなことができたとしたら、ある意味ではその病は私の「運命」だったと言っていいのかもしれない。

そして実際の私の場合は、その「運命」のひとつが「霊存在との出会い」だったと言えるかもしれない。もしそれが「運命」だったなら、たとえそれが「あのとき」でなかったとしても、私が「あの場所」にいなかったとしても、遅かれ早かれ私はどこかで霊存在と出会っていたということになる。

しかし、今の私の考えでは、私の「運命」はおそらくそこまでだ。その「出会い」のあと、それをどう捉え、どう考え、どう活かすか、あるいは封じてしまうのか、それは私の「選択」に委ねられていたはずだ。そしてその選択次第では、私の現在の環境や心情は大きく違ったものになっていただろう。その私の選択が最善だったかはわからない。ただ私が今、霊存在との出会いを「運命」だったとしてもいいと納得できているということは、私の選択は少なくともそれほど悪くはなかったとは言えるだろう。

だが、逆に今考えられる当時の「最悪の選択」というのはなにかと考えれば、「それを苦にした自殺」だったとは言い切れる。そして間違いなく、「自殺」というのはどんなときでも、誰にとっても「最悪の選択」なのである。自殺は決して「運命」ではない。あなたの現状がどんなに苦しくても、それは「変えられない運命」ではない。あなたを自殺させるのはあなた自身である。ならばあなたを生かすのもあなた自身である。そのことを決して忘れないで生きていってほしい。そうすればきっと、あなたの本来の「運命」も、あなたを喜びへと、導いていってくれるのだから。

この話題は、以下に続きます。

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