「運」(ツキ)とはなんであり、それは私たちの「しあわせ」にどう影響するものなのだろうか?

最近ではコメントやメールなどで私に直接いろいろとメッセージやご質問をくださる方々がさらに増えてきていて、とてもありがたいと思っている。そういったメッセージは個別に返信したり、あるいは文章の題材に活かしたりしているのだが、今回もそんな読者のかたに、「運がいい」ということについての興味深いメッセージをいただいたので、ここに私なりの考えを書いてみたいと思う。

いただいたメールによると、その読者のかたの知人にとても「運のいい」ひとがいて、たとえば懸賞やキャンペーンに当選するだけでなく、道端で金銭を拾うようなことも頻繁にあるのだという。

さらにそのひとは仕事や日常生活もとても充実しているように見え、それがあまりにも恵まれているように思えるので、もしこれが「運がいい」ということなのだとすると、その差はいったいどこから来るのか、そもそも「運」とはなんなのか、ついそんなことを考えたくなってしまうという。

もちろん、私たちは「努力」が成功に欠かせない要素であることをわかっている。しかし一方で、私たちはそれぞれの「スタートライン」が決して同じでないことにも気付いている。たとえば、収入の多い家庭に生まれたこどもはより質のいい教育を受けやすく、結果としてより高い社会的地位に就きやすいというのは、現在の情勢を鑑みればもはや否定できない事実だろう。

だがだからといって「努力」に価値をまったく認めないのは早計だし、もしそうならそこには「希望」がないということになってしまう。しかし、逆に考えればどんな恵まれた環境にいるように見えてもそれを生かし切れないひともたくさんいるのだから、やはり成功には後天的な要因も大きく影響することは間違いないのだろう。

とはいえ、同じような環境から同じくらい、あるいはそれ以上の努力をしたとしても、それが望んでいた結果に結びつかないことがたくさんあるのも私たちは数多く目にしてきたし、多かれ少なかれ自分自身もそんな経験があると思う。だからこそ、私たちはそんな「一線」を分ける「力」や「流れ」を「運」あるいは「運命」(宿命)などと呼んできた。

では、こうした「運」とはいったいなんなのだろうか?またそれは完全に先天的なものなのだろうか、それとも後天的に獲得したり、増やしたりできるようなものなのだろうか?そしてなによりそれは、わたしたちの「しあわせ」にどこまで影響するものなのだろうか?

先ほども書いたように、「運」という言葉は「運命」という言葉と限りなく近い意味で用いられることもある。そして、「運命」についても古今東西たくさんの議論が為されてきたが、私も何度か自分なりの考えを巡らせてきた。それを簡単に言えば、

私たちの人生には大きな「流れ」(運命)と言えるようなものがはたらくときも確かにあるとしても、私たち自身の選択によって善くも悪くも変えられる部分もたくさんある

ということだ。

前回、自分が孤独で生きる気力も持てないと感じたようなときには、守護霊の存在を思い起こしてほしいと書いた。 これはある読者のかた...

これを今回の文脈に沿って言い換えてみると、

確かに運不運に左右されてしまうこともあるかもしれないが、私たちの後天的な「努力」(積み重ね)がもたらす成果が大きいことも忘れないでほしい

と言ってもいいだろう。

だが、「運」はときとして「運勢」とか「ツキ」あるいは「バイオリズム」(調子)などと言うような言葉で言い換えられることもある。そしてその場合の意味は、「運命」や「宿命」とは少し違うものだ。言ってみればなんらかの「気まぐれな力」あるいは「風」のようなものだといえるかもしれない。だとすると誰にでも吹いたり吹かなかったりするはずだし、実際そんなものだとも考えられているのだが、実際には冒頭のひとのように、その風がいつも吹いているように見えるひともいる。だから私たちはそんなひとを

運がいい

強運だ

などと羨んでみたり、その逆を

不運だ

ツキに見放されている

などと嘆いてみたりする。

ただ、忘れてはならないのは、以前にも書いた「宝くじの高額当選者」の例のように、大きな「僥倖」がむしろ当人を不幸にさせることもあるということだ。

現代では資本主義が世界を覆い尽くしている。だから、私たちはカネのことを考えずには生きていられないとさえ言える。基本的な衣食住から様々な「サー...

だから仮に「強運」という一種の「才能」のようなものがあるとしても、それを真に活かしてしあわせになれるかは別の問題なのである。一言で言えば、なにも「運」だけに限らず、

「大いなる力には大いなる責任が伴う」

ということだ。そして、自分の「力」を自他のしあわせのために活かせているのだとしたら、それこそがそのひとが磨き上げた最大の「徳」なのである。

では、こうしたことを踏まえたうえで、自分の望む「成功」に近づくために

「運を引き寄せる」

ような方法はあるのだろうか?もちろん私自身も日々悪戦苦闘している存在にすぎないので、あくまでも「可能性」としての話なのだが、もしかしたら、そういったものもあるのかもしれない。

そのひとつが、

「より強く望むもののために、他のなにかを制限する」

ということだ。ここで重要なのは、これが

(他者からの)「強制」や(あまりにも嫌々ながらの)「犠牲」ではなく、「自らの強い意志に基づく制限」である

ことだ。たとえば私たちの先人も昔から願掛けのときに「断ちもの」をしてきたし、江戸時代の観相家、水野南北は

「節食開運法」

を強く提唱している。少し違った視点から見ると、

キャリアアップのためなら恋愛は後回しにする

家族との時間を大切にしたいので昇進を断る

などといったそれぞれの選択もこの一種と言えるかもしれない。私たちの持つ時間(いのち)は有限なのだから、より強く望むものにエネルギーを集中させることでより好い結果につなげるということだ。

そしてもうひとつは

「肩の力を抜く」(過度の執着を棄てる)

ということだ。これはときに

ゾーンに入る

とも表現され、特にアスリートが体験することも多いようだが、たとえばスポーツの試合中に、まるで自分の潜在能力が最大限発揮されているような状態になることがある。しかしそれは、ある種の「無意識」が自分のからだを動かしているようなもので、そこにたとえば

勝ちたい!

このままいけば優勝だ!

などといった「意識」(執着)が入ってしまうと、たちまちその「奇跡の時間」は消え去ってしまうという。だからこそ、いい意味で「肩の力を抜く」ことが必要なのだ。

ここで、あなたはもしかしたらこう思うかもしれない。

「エネルギーを集中させる」というのと「肩の力を抜く」というのは両立しない矛盾なのではないか?

だがこれは、言ってみれば

「練習には懸命に打ち込み、本番には落ち着いて臨む」

ということだと考えることができると思う。古来からあるものを究めるためには「守破離」の過程があるとも言われるが、なんでも最初は基本から懸命に(意識的に)学んだとしても、最後にはそれを「忘れ」、「意識せずにできる」ようになったときに「身についた」と言えるのだ。それは、「独自性」のひとつの始まりでもある。

先に書いたように、私も日々暗中模索、試行錯誤を繰り返している存在にすぎないので、どうすれば運を呼び込めるかなどよくはわからない。自分の運がいいとも特に思わない。ただ、今までも様々な紆余曲折があり、現在でも少なからず悩みながらではあるが、それでもそれなりにはしあわせや喜びも感じながら生きていられるのだから、その意味ではやはり

恵まれている

のだとも思う。それから、最後に改めて強調しておきたいのは、たとえばあなたが自分を

運が悪い

と感じていたり、場合によっては病に倒れたり、平均寿命に満たないまま死ぬことになったとしても、それは決してなんらかの「罰」だとか「前世の報い」だとかいうようなものではないということだ。なかなかその渦中にはそう思えないものではあるが、長い長い生まれ変わりの繰り返しの過程のなかで考えれば、すべては

「貴重な体験」(学び)

であるというのが答えであるとしか言いようがないのである。

ただ、それでも実際どうしようもなく落ち込んでしまったり、苦しく感じてしまうことがあるのも確かだ。そんなときは、ぜひ誰かに頼ってほしい。もし私になにかできることがあれば、遠慮なく声をかけてほしい。実のところこうして『闇の向こう側』を書いていると私にもいろいろな霊存在がやってくるし、そうでなくてもいろいろ落ち込むようなこともあるのだが、そんな私は間違いなく、あなたに励まされているのだ。だからこれからも、お互いを支え合っていけたらと、私は強く思っているのである。

コメント

  1. だれか より:

    田植えが終わり・・生活費稼ぎを出来るようになりました。ありがたい

    トラクターがパンクした・・寿命が来たか・・気にしない・・米では資金が出ないからアルバイトです

    苗が足りないのに次々と駆け込みで作付けをやめた年配(80歳以上の人)が植えてくれと頼む

    快く引き受けて株間はしだいに広くなる・・気にしない

    想定外の出来事も楽しい・・

    金は天下のまわりもの・・生きているのが楽しい

    田舎は宝の山ですね

    久しぶりお読みしてうれしくなりました・・ありがとうございます

    • Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      私も日々「食」の大切さを感じていますが、なにより生産者の方々がいなければ誰もそれを食べられません。いのちの基盤を成す重要な役目でありながら、資本主義社会で得られる対価は決して多くないなか、それでもその役割を果たしてくださる方々の存在には心から頭が下がります。

      私はもともとからだが頑健でないこともあり肉体労働にはまったく向いていないので、私は私なりに今はこうした活動をしているのですが、それが少しでもだれかさんの力になっているのであれば本当に嬉しく思います。
      だれかさんにとってのトラクターのように、私もこのパソコンが寿命を迎えたらどうしようかなどと考えてしまうこともあるのですが、私もだれかさんを見習って必要以上の不安を持たないようにしようと思います。

      これからもおからだご自愛なさって、気が向いたときにはいつでもお越しくださいね。