資本主義が変革されるとしたら、まずは「カネの価値はひとによって異なる」ということに向き合うことから始まるのではないだろうか?

現代社会で「資本主義」が大きな力を持っている限り、私たちが日々「カネの話」から逃れられないのは今に始まったことではないのだが、それにしてもここ最近は特に目まぐるしく様々な話題が飛び交っていたと思う。

たとえばギリシャの経済危機が取り沙汰される一方で、プエルトリコも債務不履行の瀬戸際まで追い込まれた。上海総合指数は大きく下落に転じ、中国経済の先行きに対する不安も強まっている。そしてもちろん、これは世界でも筆頭の借金を抱える日本にとって軽々しく受け止められるような話では決してない。

そんななかで、新幹線の車内で老年の男性が焼身自殺した事件が世間を騒がせもしたが、一説には彼は

ひと月12万円ほどの年金では暮らしていけない

という強い不満を感じていたとも言われている。つまりここでも結局は「カネの話」になるのだが、この「月12万円」という金額は、私の現在の平均生活費よりわずかながらまだ多いくらいなのである。

以前にも少し書いたことだが、「カネ」とは私たちが「発明」したもののなかでも最高度と言ってもいいほどの「平等性」を持っている。それが私の手にあろうが幼児の手にあろうが、その「取引価値」は変わらない。カネはそれ自体が「信用」を生む装置だからである。

ユダヤ人が世界を裏で支配している という言説がある。これは一定程度の方々の間で受け入れられている話のようである。実際、科学者や芸能人、...

ただし、カネが平等なのはその「取引価値」においてだけであって、その「所有者本人にとっての価値」は明らかにまったく違う。たとえばこどもが家事を手伝って1万円の小遣いを貯めるのはそう簡単ではない。しかし世のなかには一晩の賭けごとで数千万円を失っても大した痛手にならないひともいるだろう。ということは、そのひとにとっての「数千万円」は私にとっての「数百円」程度の体感価値しかないということだ。これはつまり、カネは

「所有者にとっての『体感価値』はまったく異なるのに、使用されるときにはまったく『平等』に扱われる」

という意味での「不平等性」が潜んでいるということを示している。

そして、カネにはもうひとつ、「自己増殖」をするという特質がある。そしてそれは「複利」によって強力に後押しされるので、「元金」が多いほどその増加は著しくなる。その「資本収益率」はほとんど絶対的に「経済成長率」(それに伴う所得の自然増加率)を上回る。そして、そのカネは「相続」によって子孫に受け継がれるのだから、それは「格差の拡大」につながる。この明白な事実は、近年フランスの経済学者トマ・ピケティ博士によってより広く知られることになったとも言えるだろう。

ところで、以前から

私たちが霊的進化を遂げると、カネの世は崩壊し、無償奉仕の世となる

というような言説がある。これは2012年前後に大きく盛り上がった「アセンション論」とも相まって、

2012年に世界経済が大崩壊する

などという話もあったが、現実には今も資本主義社会は続いている。

だが、これはある意味自然なことだ。なぜなら、長く続いてきた社会体制がある日突然変わるなどということはほぼあり得ないし、私たちはよほどのことがない限り現状を維持しようとするからだ。それに万が一<神>と呼ばれるような存在が「圧倒的な力」を以って「平和」を成し遂げたとしても、それはそう遠くないうちに自ずと崩壊するだろう。

よく言われるように

なにもしなくても生きていけるならみんな怠け者になるんじゃないの?

という意見にも、現状では確かに一理あると私は思う。生まれたての赤ちゃんにパソコンを与えてもよだれで壊してしまうことが想像されるように、それが道具であれ制度であれ、すべてはそこにいるひとたちの「成熟度」によって左右されるのである。

だから、私たちに必要なのは「劇的な革命」ではなく、

「ゆっくりとでも確実な変化」

であり、そこには少なくともある程度の「合意と納得」が求められる。だからこそ、私たちは「民主主義」を選択しているのだとも私は思う。

私もいずれは「無償の世」が成り立つのがひとつの理想だとも思っている。だがそれがあくまでも「現状」を踏まえたうえで生まれるものだとするなら、それはまず

「カネの価値はひとによって異なる」ということに向き合うことから始まるのではないか?

と私は考えているのである。

たとえば、今私が喫茶店でコーヒーを飲もうとしたとする。すると、同じ店の客である限り、それが私であれ資産数億円の大富豪であれ、支払う金額は同じである。しかし、私は以前「保留コーヒー」という取り組みから、今とは違う新しい経済の可能性を感じた。

全国に拡がりを見せる「保留コーヒー」というものは、新たな経済システムの萌芽なのかもしれません。

これは私なりに言えば、カネの「体感価値」に基づく経済である。

ならばもしこれが発展したとすると、未来の喫茶店のメニュー表はこんなようになっているかもしれない。

コーヒー1杯:あなたの1日分の収入の10%

これならたとえば

「『月収18万円のひとは600円』で、『月収12万円のひとは400円』でコーヒーが飲める」

ということになる。もちろん、

「現在無収入のひとは無料」

ということだ。その代わり、

「月収60万円のひとには2000円支払ってもらう」

ということになる。

では、その価格決定の基になる「収入」はどこから決めるかというと、それはやはり「自己申告制」になるだろう。

それでは全員が無収入だと言い張るのではないか?

というのなら、それこそが私たちがまだこのような経済体制に移行できない理由なのだ。つまり、先にも書いたように最終的には私たちの「成熟度」(精神性)がすべてを左右するのである。だが逆に言えば、もし私たちがこんな体制を作れたのなら、そのうち本当に「無償の世」も実現することになるだろう。

先日、サウジアラビアのアルワリード・ビン・タラール王子が、320億ドル(時価およそ3兆9000億円)を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。

しかし、それほど高額でなく、話題にもならないかもしれないが、買い物のお釣りをレジの募金箱に入れているあなたも、あるいは友人の悩みを真摯に聴いているあなたも、

「自分にできる範囲において誰かを支えている」

という意味では同じである。そしてそういった活動の総合が、本来の「経済」(経世済民)なのだ。そう考えると、究極的には私たちの生きかたそのものが「経済活動」なのである。その原点をもういちど意識し、私も含めひとりひとりがそうした日々を積み重ねていけば、そこにはきっと今よりもっと喜び多い世界が実現するのだと、私は確信しているのである。