私たちの「共感性」が存分に発揮されれば、「利己主義」と「利他主義」の間の差など消えてなくなる

あなたは利己的なひとですね!

自分勝手なことばかりしないでくれ!

お前のためだけに世界があるわけじゃないんだ!

誰でもこんなことを言われれば落ち込むだろう。自分が責められていることがわかるからだ。つまり、「利己的」とか

自分勝手だ!

ジコチューだ!

といったような言葉は、すべて否定的な意味合いを持っていると言える。

ではその対義語はなにかと考えてみると、「利他主義」とか「自己犠牲」、あるいは「博愛主義」や「集団主義」などがそうだと言えるかもしれない。しかし、そんな「利他主義」や「慈愛」に満ちあふれたひとの代表格として後世にまで語り継がれているひと、たとえば「マザー・テレサ」や「ナイチンゲール」のようなひとに対してでさえ、その気になれば必ずしも肯定的ではない見かたをすることもできる。

あいつらだって結局は自分がそれをしているときにしあわせを感じるからやっているんだ。「自己満足」や「達成感」が得られる行動がたまたま周りから見ても素晴らしい行動だったってだけ。だから本質的には誰のどんな行動も利己的なんだよ

と言ったように。こんなことを大々的に言ってもあまり賛同は得られないかもしれない。しかしこれがまったくの的外れなのかというとそうとも言えないような気もする。

そもそも、私たちは自分自身のことすらよくわかっていないのだから、ましてや他者のことなど「想像」することはできても「一体化」することはできない。自分なら決してやらないようなことを平気でするひとなどざらにいるし、それで相手はなんの違和感や罪悪感も感じていないことだってある。逆に自分には想像もできなかったようなことを成し遂げてみたり、なんのこともないようにふと言った言葉で自分を助けてくれたりするようなことがあるのも、他者が自分とは違う存在だからだ。

確かに、同じ相手との関わりが深くなればより相手のことがわかってくるし、そういった「経験」や「自分の体験」から相手の気持ちや行動を「想像」するときの精度は上がっていくかもしれない。だが、それをどこまで続けても他者は他者である。だから自分ではよかれとおもってしたことが相手にとっては「おせっかい」だったということなどいくらでもある。

だからそういった意味でも、私たちは究極的には

「自分を世界の中心に置いて」考え、行動するしかない」

ということになる。だがもしそうだとすると、やはり私たちは本質的にはみな「利己的」で、「自己満足」を求めながら生きているということになるのだろうか? そしてそんな

「利己的」なひとが増えたせいで悲惨な事件が増えている

とも言われるような現代において、私たちができることは結局はなにもないということになるのだろうか?

結論から言うと、私はそんなに悲観することはないと考えている。なぜなら私は今多くのひとが否定的に捉えている<利己的>というのは本当の意味での「利己的」ではないと考えているからだ。そして、もし私たちの「共感性」がもっと強く発揮されるようになれば、そのときには「利己主義」と「利他主義」の間の差など消えてなくなると考えているからである。

「性悪説」を唱え、「教育」や「努力」によってひとの善からぬ本性(欲望を求める利己性)を矯正することの大切さを説いた荀子に対して、ひとが本来持つ道徳性が曇ったことで道を外れるのが「悪」であり、本来的にはみな善人であるという「性善説」を唱えたのが孟子であることはよく知られているが、彼は自らの主張をこのようにも表現している。

惻隠之心仁之端也。羞悪之心義之端也。辭譲之心禮之端也。是非之心智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。

(惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辭譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。ひとの是の四端あるや、猶ほ其の四体有るがごとし。)

少し乱暴だがこれを平たく言ってしまうと、

「私たちの心には他者を思いやり、共感する能力が備わっている」

ということだ。そしてそこから一歩進んで私なりの言いかたで言えば、私は

程度の差こそあれ、「他者が喜べば自分も嬉しく、他者が苦しんでいるのは自分も苦しい(苦しんでいるのは見たくない、放っておけない」という心のはたらきが、私たちひとりひとりに備わっているはずだ

と考えているのである。

だからこそ、私はもし私たちの「共感性」がもっと強く発揮されるようになれば、そのときにはもう「利己主義」と「利他主義」の間の差など消えてなくなると思っているのだ。しかし、ではなぜ現在は<利己的>という言葉が否定的に捉えられていて、実際にそのことが悲惨な出来事を生んでいるように見えるのかと言えば、それは彼らが「思い違い」をしているからだと私は言いたい。彼らの<利己的>は真の「利己的」ではなく、それは私にはむしろ「近視眼的」と言い換えるのが適切なものだと思えるのである。

たとえば、

「相手の気持ちを考えず、肉体的、精神的に他者を傷つける」

という行為がある。これはときに<利己的>と言われるものだが、実際にこんなことをすれば、いずれそのひとは深い自責の念に苛まれて苦しむことになるだろう。もしかしたらそのときは自分の一時的な感情を晴らせて「利益」を得たように感じるかもしれないが、それはまさにそのひとが「近視眼的」だからである。

あるいは、

「自分の人生に絶望したので、自殺する」

という行為がある。これも周りから見れば<利己的>とも言える行動だし、確かに一時的には「この世でこれ以上苦しまなくて済む」という「利益」を得たように思えるかもしれない。しかしそれはそのひとが「近視眼的」だからであって、実際にはそのあとの苦悩をより大きくしているとさえ言えるのである。

自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜな...

だから、こんな行動はかりそめの<利己的>に過ぎず、実際にはまったく「利己的」でないばかりか、むしろ「有害」でしかないのである。誰かが喜べば自分も嬉しいし、誰かが苦しめば自分も苦しくなる。この単純だが大切な真実に真摯に向き合うことができれば、そこにはもう「利己」と「利他」の区別などないのである。

ちなみに、近年ではよく「サイコパス」や「ナチュラル・ボーン・キラー」と言われるような人格をもつひとが話題になることもあるが、このような他者への共感性が希薄に生まれついたひとでも、周囲からの「教育」(早ければ早いほど効果が高いと言われている)によって他者への想像力を養うことができることが知られるようになってもいる。その意味では、それが「先天的」であるか「後天的」であるかといったことは瑣末な問題であり、大切なのは

「私たちは他者に共感できるようになることができる」

ということなのだ。

それでもなぜ、私たちがときに「近視眼的」な<利己主義>に囚われ、自分のことも他者のことも傷つけてしまうのかと言えば、それこそまさに私たちが、そしてその集合体としての社会が「病んでいる」からなのだと思う。前にもどこかで書いたと思うが、私の師はよく

現代ではほとんどすべてのひとが病んでいる。だがそれは当たり前のことではなく、異常なことなんだよ

と言っていた。それほど病みが深いのならある意味今の現状にも納得できる。だが、それが「異常」だということは、それを「正常に戻す」(治す)こともまた、できる可能性があるということなのだ。

だから、私はあなたにももっと「利己的」になってほしい。それは

自分の喜びとはなんなのか?

という問いに向き合うことでもある。そして自分をいたわってあげてほしい。自分が持っていないものは誰かに分けてあげることもできない。だがもしあなたが元気になれば、その力で誰かを支えることもできる。

「利他的になるためには、まず利己的にならなければならない」

と言ってもいいだろう。言い換えれば、

「自分が元気であるというだけで、もう誰かを元気づけている」

ということでもある。私はあなたのことをまだほとんど知らないが、あなたに元気でいてほしいと思っているし、あなたがしあわせならとても嬉しく思う。ましてあなたの身近であなたをもっと大切に思っている存在はたくさんいるのだ。そのことをいつも、忘れずにいてほしいと思う。