あなたは自分にとっての「適切な寿命」がどのくらいなのか、考えてみたことはあるだろうか?

私はある時期まで、人類は現在の地球上で最も、あるいは少なくともかなり上位に格付けされるほどには長寿な動物なのだという誤解を持っていた。たとえば、

鶴は千年、亀は万年

とも言われる鶴は実際には4〜50年程度が寿命であり、これでも鳥類としては長寿ではあるにせよ、現代の日本人の平均寿命にはまだ及ばない。だが、一方の亀は種類にもよるが100年以上、あるいは200年近く生きることも多々あるというから、もはや人類の寿命を遥かに超えている。さらに、ウニやミル貝、ムカシトカゲやホッキョククジラなど、少し探せば人類程度の寿命を超えて生きる動物などたくさんいるらしいことがわかる。もちろん、人間に殺されなければの話ではあるが。

そしてもちろん同じ人類のなかでも「平均寿命」というものは時代によって変化する。それは乳幼児の死亡率の影響もあるだろうし、生活習慣による病気や、社会の不安定さによる紛争や暴動、あるいは国家間の戦争などによっても大きく変動しうるだろう。しかし長期的な観点から見れば、「医学の進歩」や「文明の発展」によって私たちの平均寿命は延びていっているように思える。それに、現時点ではその傾向がこれからも続くことを望んでいるひとが多いのだろうし、「不老不死」を願う権力者は古今東西どこにでも現れてきた。だから昔なら「人生50年」という認識は大きく外れてはいなかったのかもしれないが、少なくとも現代の日本で50歳で死ねばやはり「早死に」だと悔やまれるだろうし、まして40代や30代ならなおさらだと思う。

だが、実際のところ、「長く生きる」ということは「より大きなしあわせ」を意味するのだろうか?もしそうだとしたら、今生きているひとはもっと楽しそうにしているはずなのではないのか? だがもし、今を生きることが楽しいと思えているわけではないのに

長生きしたい

と思っているのだとしたら、それは単に

死ぬのが怖い

と思っているだけなのではないのだろうか?しかし、いくら他者のことを考えてみてもそこに答えはない。ならば、こう問いを変えよう。あなたは、自分にとっての「適切な寿命」がどのくらいなのか、考えてみたことはあるだろうか?

初めに一応念を押しておくが、ここで私が言いたいのは、たとえば

私は20歳だけれど、もう私はこの世界への興味を失ったので、このくらいで死ぬことにします

というような「積極的な自殺」によって「自分にとっての適切な寿命」を定めるといったようなことではない。ただたとえば現代の日本ならだいたい「80年」が「平均寿命」として想定されているが、これはあなたにとって短いと感じられるのか、あるいは逆に長過ぎると感じるのか、またはこのくらいがちょうどいいと思えるものなのか?ということを、少し考えてみてほしいということなのである。

そもそも私は自分がいつ「平均寿命」というものを意識したのかはよく憶えていない。しかし、いつからか自然と

ひとはだいたい自分が80年くらい生きるものだと思って生きているんだな

ということに気付いた。おそらくこれは私だけでなく多くのひとがそうなのだと思うが、私たちは社会のなかで生きていくうちに自然と「その社会で想定されている平均寿命」に沿ったかたちで「人生設計」を立てる(あるいは立てさせられる)ようになる。たとえば

定年後からの老後の生活のためには〜万円の貯蓄をしておく必要がある

などといった言説もその一例であると言えるだろう。

ただ私が少し違っていたのは、私が生まれつきとても病弱だったため、自分のからだにいつなんどきなにが起きても特に驚かないような状態だったことである。もちろん周囲のひとたちは私があっさり死んでしまったらとても哀しんだだろうとは思うが、私個人としてはそうなったらそうなったでしかたがないというような気持ちは早くからあったような気がする。実際に私は20歳を待たずして死んでいったひとを見てもいる。それは決して私が人生に絶望していたというようなことではないのだが、そんなこともあって私は幼少期から「いのち」に強い関心を持ってきたのは間違いないと思う。

それで私が自分自身や他者を見ながら思うようになったのは、

どうやら周囲の大人はそれほど楽しそうには見えない

ということだった。しかし、周りのこどもたちはというと少なくとも大人たちほど苦しんでいるようには見えなかった。たとえ彼らがどんなに病弱で、周りからは「不幸」だと思われていたとしてもである。ここで私がピーター・パンならネバーランドにでも行ってずっとこどものままでいようとしたのかもしれないが、私に浮かんだ考えはそれとも少し違った。

それなら、みんなが15歳くらいで死ぬからだだったほうがよかったのかなぁ?

今思い出せるなかでもこのころには明確に、私はこの「80年」という寿命が、ひとのしあわせにとって長いのか短いのかを考えるようになったのである。

なお、この話は、今と同じように多くのひとが自分の「平均寿命」がどのくらいであるかを知っていて、もちろん身体的な成熟もその寿命に合わせて早まること、そして知性は現在と同じであることを前提にしているのだが、問題の核心をつかむために、私はまず人間の寿命が「1日」だった場合から考えてみることにした。この場合、おそらく私たちは、生まれて周囲の環境を理解すると、できるだけ早く伴侶を見つけ、こどもを産み、そのこどもに短いいのちを大切に生きることを伝えて死ぬのではないかと考えた。もし人生がこれだけ短いのなら、さすがに私たちも

どう生きていけばいいのか?

などと考えて思い悩むようなこともないだろう。それに「文明の伝承」にも限度があるだろうから、地球環境も今ほど汚れていなかっただろうし、「宗教対立」なども起こるヒマがないだろうと思った。しかし、唯一最大の問題は、

これではあまりにも味も素っ気もない

と思えるということだった。そこでいろいろ思い巡らしながらたどり着いたひとつの「候補」が「15年」という長さだったのである。

まず私が思ったのは、

もし私だけでなくあらゆるひとが15年ほどで死ぬからだだった場合、私がそれより数年早く亡くなったからといって周りもそこまでは哀しまないだろう

ということだった。確かに平均寿命よりは短いし、できればもっと生きてほしかったとは思われるかもしれない。しかし、そうは言っても平均の7割くらいは生きたのだから、どうしようもなく早死にしたとまでも言えないだろう。それに、他のひとだって、あれだけ苦しそうに生きる毎日が少なくて済むし、老後の心配も減るだろう。それになにより、限られた人生をもっと楽しいことのために遣おうと思うようになるんじゃないだろうか?なにせ、無駄にできる時間はそれほどないのだから。

老後からの楽しみにとっておこう

などと言っている場合ではないのである。こう考えると、これは我ながらなかなかいいアイディアなのではないかとも思えた。

しかし、当たり前のことだがこれはあくまでも「私が考えた世界」であって、現実にひとはもっと長く生きることのほうが多いことを知っていたし、もし本当にひとの寿命が15年ほどになったなら、今度はそのなかでそれなりの苦悩が生まれるだろうとも感じていた。もしかしたら、そのとき私たちは

人生はなんて短いんだ!

などと嘆いたり、その短いなかでもなおなにかに絶望して自殺したりするのかもしれない。とはいえ、このときから感じている疑問や関心は、今でも確かに私のなかにあるものだ。

ただ、そのときの私と今の私の明らかな違いは、私がそこから生き延び、さらに今でもなおこの世界で生き続けているということである。もちろん、あのとき私が想定した「15年」という年月も、遥か昔においてきた。私は多くの「体験」を重ねてきたのである。そして今だからこそはっきりと言えるのだが、私はあのときはずっと先だと感じていた「15年」という年数でこの生涯が終わらなくて本当によかったと思っている。その理由をひとつ挙げれば、もし私の人生が15年しかなかったなら、私はまだ霊存在に出会っていなかったからだとも言えるのである。

私は確かに霊存在によってたくさんの苦しみを味わってきたし、今でもそれは変わらない。今度こそ殺されるのではないかと思ったことも何度もある。だが、それ以上にたくさんの喜びを霊存在からもらってきたことも確かな事実なのである。それにこれはなにも霊存在との出会いに限ったことではないだろう。長く生きていればもちろん苦しみや哀しみも多いが、楽しみや喜びも確かにあるものだ。そしてそのどちらを多く見つけるかは、そのひとの「意志」次第でもあるのである。

そして私は今だって頑健なからだになったわけではないが、たとえほんの数年前に死んでいただけでも、私はこの『闇の向こう側』の活動を始めていなかったことになるので、もちろんあなたにも会えなかった。それだけでも、私は今まで生きてこられて本当によかったと思っている。

ただ一方で、私は決して「不老不死」が理想だとも思わないし、病気が悪だとも断定はしない。なぜなら、

「死ななければ生まれ変われないから」

だ。そもそも私たちが不老不死を心から望んでいたなら、生まれてこないでずっとあの世で霊存在として生きていればよかったのだ。しかしそれをしなかったのは、他でもない私たち自身である。そして、そこにはもちろん理由がある。そのひとつとして今の私が言えるとすれば、それは

環境や立場をガラリと変えなければ、見えてこないものがあるから

なのだとも思う。

「平均寿命」などあてにならない。あなたも私もいつ死ぬかなどわからない。だが、それが自殺でない限り、私が死んだとき、それが私の「適切な寿命」なのである。だから、私はあなたにも、この人生を楽しんでほしい。そしてそのことをすべてのひとが受け入れ、実践できる日が来たら、私もそのときこそきっと、笑って死ねるだろう。そしてなによりも、まず私自身が自分の人生をもっと楽しめるようになりたいと思う。それこそがきっと、あのときの私に対して、「大人になった私」ができる、大きな役割なのだから。