文明の寿命を予測する方法はもうあるが、それで私たちが変われるかは別問題だ

いつも書いていることだが、私たちは自分がいつ死ぬかなどわからない。

一病息災

という言い回しもあるように、普段から健康に自信のあるひとよりも、幼少期からずっとからだが弱かったほうなひとのほうが、よりからだをいたわるため長生きすることも多い。しかしそうかと思えば、そんな自身の健康管理とは関係なく、事故や災害で急逝するひとも数多くいる。だから、誰も寿命を正確に予測することはできない。

しかし、そのなかでも一応私たちは「平均寿命」というものを目安にすることができる。それで、自分が200年も生きることはないだろうということくらいはわかる。それに、日々多くのストレスにさらされ周囲に怒鳴り散らし暴飲暴食に走っているようなひとはそうでないひとより寿命が短い可能性が高いというくらいの予測なら付けることができるし、それはおそらくそう間違っていない。「絶対にそうだ」とまでは言えないが、

そうなる可能性が高い

ということくらいなら、私たちはそれなりの確度で言うことができるということだ。

そして、これはなにもひとや生物に限った話ではない。だから先賢は

「かたちあるものはいつか滅びる」

と言ったり、「無常」を説いたり、あるいは

万物は流転する

と言ってみたりしているが、これらはすべて相通じるものがあると言えるだろう。それに、私たちの身の回りにある様々なモノにも自然に老朽化することを前提とした「耐用年数」が想定されている。

このように、私たちは「生きもの」の寿命も「モノ」の寿命もある程度までなら予測することができる。では、「自然」や「地球」、あるいは「社会」や「文明」といったものについてはどうだろう?実は、私たちはそれを予測する手段をもう持っている。ただし、それは問題が即座に解決されることを意味しているわけではない。なぜなら、なにごとも最も重要なのは「知識」そのものではなく「それをどう活かすか」であり、「自分がどう行動するか」ということだからである。

石原慎太郎という政治家はかつて自分が出席したスティーブン・ホーキング博士の講演会において、とても衝撃的な質疑応答があったことに度々触れているのだが、そのことについて書かれた2007年のコラムがあるので、孫引きではあるが以下に引用したい。

筋ジストロフィという業病に侵され、すでに声が出ずに指先でコンピューターのキイを叩いての人造声で話された講演の後質問が許され、聴衆の一人が、この宇宙全体に地球のような文明を持った星が幾つほどあるのだろうかと質(ただ)したら、ホーキングは言下に「200万ほど」と答えた。

その数に驚いた他の参加者が、ならばなぜ我々は実際にそうした星からの来訪者としての宇宙人や宇宙船を見ることがないのかと聞いたら、これまた言下に、「地球のような高度の文明を造り出した星は、そのせいで循環が狂ってしまい極めて不安定な状況をきたし、宇宙全体の時間からすればほとんど瞬間に近い速度で自滅するからだ」と答えたものだった。

そしてその、宇宙を覆う膨大な時間帯からして瞬間に近い時間とは、地球時間にしてどれほどのものかという問いに彼は眉をひそめ、「まあ、100年ほどか」といっていた。

先年ある出版社が国内外のさまざまな専門家に、人間の存在の舞台たる地球の寿命について質したら、大方の答えが100年弱ということだったそうな。

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。

彼は2013年の国会でもこのことについて発言しているのだが、世界的に著名な科学者のひとりがこのような発言をしていることは軽々に無視することはできないだろう。この講演会は今から40年ほど前ということだから、当時から見て100年後とは単純に言えば現在から見て「60年後」ということになる。

ところで科学と言えば

地球はいずれ太陽が寿命を迎えるとともにその影響によって滅びる

というような説もあるし、そもそも

この宇宙自体がいずれ現在の膨張から縮小に転じてエネルギーを減らしながら死んでいく

とも言われているが、たかだか今日明日の天気すら正確に言い当てられない「科学」が、太陽や地球、あるいは宇宙の未来について行っている予測にどの程度意味があるのかはわからないので、私はそのようなことはあまり気にしていない。そんなことより、私が生きているであろう期間に起きると思われることを考えることのほうがずっと大切だからだ。

しかし科学が絶対でないという立場に立つなら、そもそもホーキング博士の説だって同じではないのか?

という意見もあるだろうが、私はなにもここで科学の話だけをするつもりはない。むしろもっと身近なところから言えば、あるものの「寿命」を予測したければ、その「核」になっている要素がいつまで安定的にあるのかを考えればいい。それは別に科学者ではない私にもできることだ。では、私たちの現在の「社会」や「文明」の「核」になっているものとは、いったいなんだろうか?

まず思い浮かぶのは「石油」である。私たちが「現代文明」と呼ぶものは、そのほとんどがなんらかのかたちで石油に依存している。だから、石油が無くなれば少なくとも今のような文明は死ぬことになる。ただ、石油はずっと「あと数十年で枯渇する」と言われ続けながら未だに無くなっていない。それはもしかしたら当時は見つけられていなかった「油田」が見つかったからかもしれないし、より徹底的な自然破壊と引き換えに「シェールオイル」などの「技術」を発達させたからかもしれないが、石油はその原理から言っても明らかに有限なものであり、いずれは必ず無くなってしまうものである。しかし、私たちはそれが「放射線」であれ、「地震」であれ、あるいは「霊」であれ、「普段目に見えないもの」について真摯に向き合うのがあまりにも苦手である。だから、石油だけではそれほど切実な問題とは捉えられないのかもしれない。

だが、文明の寿命は「目に見えるもの」からでも推し量ることができる。たとえば「森林」がその最大のもののひとつだ。自然界において最も根本的な「生産者」は植物である。植物が消滅すれば動物も生きてはいけない。では現在その「植物」は、その集合体としての「森林」はいったいどうなっているのだろうか? もちろん、すさまじいほどの速度で破壊されていっているのである。アジア最大のジャングル地帯である「ボルネオ島」のジャングルが消滅するとか、ましてや世界最大のジャングルであるアマゾンのジャングルが消えるなど想像できないかもしれないが、私たちはこのまま行けば確実にそこに行き着くことになるだろう。現に、ディズニーの映画『ジャングルブック』に描かれたようなインドのジャングルはもはやない。

森林は石油のように

「もしかしたらまだたくさん出てくるかもしれない」

というようなものではない。放射線のように目に見えないものでもない。それが日に日に減っていることは、実際に私たちの目で確かめることができる。そしてこのまま行けば、それはあと「数十年」で消滅するとされている。これは先に引用したホーキング博士の意見にも合致する。この「数十年」が、私たちに突きつけられた「文明の余命」である。

しかし私たちは

「いつかは必ず来るが、今すぐではない」

という問題に対処するのがとても不得意である。だからこそ、私たちは「生活習慣病」に罹り、「公害」や「原発事故」を何度も発生させ、そして「死」に怯えているのである。

私たちは、自分たちの文明の寿命を予測する手段をもう持っている。ただし、それは問題が即座に解決されることを意味しているわけではない。なぜなら、なにごとも最も重要なのは「知識」そのものではなく

「それをどう活かすか」であり、「自分がどう行動するか」

ということだからである。それは決して簡単なことではない。しかし、これまでも書いてきたように、ある問題を解決するためには、まず「現状を認識」し、そしてそれを変えようと「決意する」ことが必要だ。

なぜもっと早く変われなかったのか。こうなることはわかりきっていたのに……

たとえば70年前を振り返って、私たちはこのように言う。ならば今度こそ、70年後を生きるひとびとに同じことを言われないようにしなければならない。それは多くの存在の願いでもある。事態は決して楽観視できるものではない。しかし、私たちが本気になり、そして力を合わせることができるなら、私たちはきっと、変われるのである。