一見「無駄」に見えるもののなかにこそ、私たちを救うカギがある

なんだ、そんなんじゃいつまで経ってもクリアできないよ。もっと効率よくレベルアップするにはね……

これは私が先日たまたま耳にしたこどもたちの会話だが、私はこの言葉に心底ぞっとした。ついに、「遊び」にまで「効率」が求められる時代になったのか……。

私たち現生人類は自らの学名を

ホモ・サピエンス

と規定したが、これは「知恵のあるひと」という意味である。つまり、私たち、あるいは学者たちの一部は自らの特質が

「他種族よりも知恵がある」

ところにあると考えていたのである。しかし、これはなにも唯一絶対の意見ではない。たとえば、オランダの歴史学者であるヨハン・ホイジンガは人類を

ホモ・ルーデンス

だと捉えた。これは「遊びをするひと」という意味である。これは1938年の著書のなかで提唱されたものだが、それよりもずっと古い時代に、日本の『梁塵秘抄』にもこのような歌が遺されている。

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

ここで「遊び」とはなんなのかについてあまり厳密な定義をするつもりはないが、私にとっての「遊び」とは、「非効率的で非生産的なもの」であり、だからこそかけがえのない価値のあるものだと考えている。遊んだからといって資産が増えるわけではないし、飢えが満たされるわけでもない。社会的地位が得られるわけでもない。むしろ

遊んでばかりいないで、少しは勉強でもしなさい!

などと言われてしまうことのほうがはるかに多いだろう。もちろん、本来は「遊び」の一種であったはずの「スポーツ」の道を究めて「プロ」になる方々もいるが、その場合それはもはや「仕事」であって「遊び」ではなくなっている。だから、やはり「遊び」とは本質的に「非効率的で非生産的なもの」、言い換えれば「無駄なもの」なのである。

しかし、古今東西私たちの世界から「遊び」が消え去ったことはない。なぜ、生存することそのものには直接関係がないように思えるものがこれだけ強く私たちの生活に根ざしているのだろうか?この問いには、現代社会でますます強く求められている「効率」の対極にあるとも言える「遊び」(無駄)がなぜ必要なのかという重要な視点が示唆されている。だが、その「遊び」のなかにまで「効率化」の波が迫っていることが冒頭のこどもたちの会話から垣間見えるのだが、それはもちろん現代の「カネ至上主義」が影響しているのだろう。これは資本主義が現代社会でほとんど絶対的な力を持っていることを考えると当然の帰結とも言えるかもしれないが、もし私たちがこれからも資本主義に促されるまま「効率化」を推し進めていくとしたら、私たちはいずれ必ず自滅していくことになることに、あなたは気付いているだろうか?

資本主義はあらゆるものをカネを介して取引できるようにし、「自然」を「資源」に、「人間」を「人材」と見なし、根本的に変質させた。そしてそのカネは無限に増殖する性質を持っているのに、地球にあるあらゆるものは基本的に有限なのだから、そこには必然的に「競争」が生まれる。するとそこで問題になるのが「無駄」だ。だから私たちは「無駄」を省き、どこまでも「効率化」することを求められる。それは確かにときには技術革新などの好影響ももたらすかもしれない。しかし、あらゆるものを「損得」や「コスト意識」で測るようになればなるほど、私たちの「人間性」(共感性)は破壊され、心のゆとりは失われていく。それが究極に達すると、

あなたを助けてなんの得があるんだ?自分さえよければいいんだよ

この世は結局カネがすべて

といった思想が蔓延するようになっていくだろう。実際、既に私たちの社会にはそうした考えが出てきつつある。

しかしなかには、私たちに「経済発展」が求められる理由として、

より経済が豊かになることで私たちには「他者を助けるゆとり」が生まれる。そしてそのことが、社会的弱者の方々の生活の質の向上につながり、それがさらなる技術の進歩をもたらす

というような意見を表明するひともいる。これは

富めるひとがより富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)

と考える「トリクルダウン理論」の一種とも見えるようなものだが、これが誤りであることはすぐにわかる。なぜなら、先にも書いたように「地球は有限」だからだ。確かに、数十年前、あるいは十数年前と比べても私たちの身の回りの技術は飛躍的と言えるほど進歩したかもしれない。しかし、それで社会的弱者が、というよりも私たちそれぞれが、どれだけしあわせになっただろうか?

それに、たとえばインドや中国のひとびとが全員日本やアメリカと同じような生活水準に至るとしたら、そのときはより強烈な自然破壊が起きることになるだろうし、実際今のような社会体制のなかでそんなことが実現することはあり得ない。ただ一方で、インドや中国、あるいはアフリカのような国々のなかにも、日本やアメリカの平均を遥かに上回る富裕層も存在する。だがこれは当たり前のことだ。なぜなら資本主義とは決して「全員が少しずつ豊かになっていく社会体制」ではなく、

「貧富の差(経済格差)が少しずつ拡大していく社会体制」

だからだ。そうでなければ、なぜ日本の生活保護受給者の数は「戦後最高」の水準になければいけないのだろうか?

そもそも、「究極的にまで効率化が進んだ社会」とはどのようなものかと言えば、それは「弱者が存在しない社会」である。これはもちろん全員が快適で満ち足りた生活を送れるようになった結果ではなくて、単に「弱者が切り捨てられた結果」である。つまり、私たちがもし「効率」だけを追い求めていくなら、それが行き着くところは「経済的生産性」だけですべてを推し量る社会であるということだ。だから、そこに弱者の生きる居場所はない。これはあらゆる「福祉」が消えていくということでもある。そしてこれは必ずしも「いつか来るかもしれない未来」の話ではない。たとえば見かたによっては「終身雇用制」というのもひとつの「福祉」だった。しかしこれはもはや確実に消えて行きつつある。そして、最終的には労働者は

「不満を持たず、なるべく休まず、過酷な環境にも適応でき、いくらでも代えがある存在」

であることが望ましいと考えられる。それにそんな存在はもうあるではないか?そう、「ロボット」(機械)だ。現代社会が「効率」を求める限り、ロボットは限りなくひとに代わる存在に近づき、実際に私たちに取って代わるようになるだろう。そして逆に私たちはよりロボットに近づいていく。今あらゆる場所で「人工知能」の研究が注目されているのも、決して偶然ではない。そしてそれがある程度にまで達したとき、そこでは「ロボットが人間を補佐する」のではなく、

「人間がロボットを補佐する」

世界が実現するのである。

これは今はまだ「極論」にも思えるかもしれない。しかし、ひとつ言えることは、「効率」を求めれば求めるほど、そこには「人間性」が要らなくなるということだ。だから、「効率化」をどこまでも推し進めていく集団が、いずれ必ず自滅する理由はここにあるのである。

ではここで考えてみてほしいのは、「効率化」が「無駄を省くこと」を意味するのだとすれば、逆に私たちの「人間性」は一見「無駄」なもの、つまり「非効率的で非生産的なもの」ホイジンガの言葉を借りれば「遊び」のなかにあるということなのだ。私たちは今現在も否応なく資本主義のなかに組み込まれていて、それが簡単には変わらないものであるのなら、「カネ」や「効率」のことをまったく考えないことはできない。それに、効率を求めることで既存の技術が進歩することがあるのも確かだし、私たちのいのちに限りがある以上、

ときはカネなり

というのにも一理はあるだろう。だがだからこそ、ときには私たちも「無駄なこと」をしなければならない。大切なひととの他愛のない会話、道行くひととの助け合い、知らない場所への旅、あるいは仮想空間のなかでのゲーム……。こういったものは見かたによってはすべて「無駄な遊び」である。しかしだからこそそこにはかけがえのない価値があるのだ。そして多くのひとが言うように、この「人生」もまた、実際にひとつの「ゲーム」なのである。ただこの人生というゲームが最も素晴らしいのは、そこに「特定の目的」がないからだ。それはそれぞれが自由に設定すればいい。だから、他のひとには無駄に見えることもそのひとにとっては無駄ではないということもたくさんある。そういう意味で言うと、

「人生に無駄はない」

というのも事実なのだ。これも人生の興味深いところである。そして言うまでもなく、ゲームは楽しんでこそのものだ。「効率よくレベルアップ」する必要などない。急ぐ必要もない。ただたくさんの楽しみを見つければいい。だから私は今、

私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。 楽しいかい? 私は...

を思い出し、改めてその言葉を肝に銘じて生きていこうと、そう思っているのである。