「個人」が「人材」へと変えられた結果、「運命の出逢い」もまた、信じられなくさせられている

日本が世界でも筆頭の少子高齢化を迎えていることはもうよく知られている事実であるし、この傾向は少なくとも簡単には変わるとも思えない。その背景には不景気による共働き世帯の増加なども要因のひとつとして挙げられてはいるが、そもそも現代の日本人は「結婚」や「恋愛」といったもの自体がうまくいかないことが多くなっているのだとも思う。実際に、晩婚化や離婚率の増加、またそれに伴うひとり親家庭の増加なども複合的に立ち現れてきているからだ。

しかし、ここで少しだけ昔のことを考えてみると、今の若者世代からほんの数世代さかのぼってみただけでも、

周囲からの勧めがあったので結婚した

結婚相手の顔を初めて見たのは結婚式の当日だった

というようなことは珍しくなかったということがわかる。だが私にとっても本当に興味深いのは、そのように必ずしも自分たちの強い意志に基づいて結ばれたとは思えない始まりであっても、そこからそのふたりが長く添い遂げ、実際に深い愛情を育んできたという事実である。もちろん、全員がそうというわけではないし、その背景には時代の雰囲気や当時の価値観の影響もあるのは確かだろう。しかしそれを差し引いたうえで、またそのようなふたりの間にも道中様々な諍いがあったことを加味したとしても、それを乗り越えて強い信頼と愛情を持った関係になった方々が多くいるのもやはりまた事実なのである。

一方に現代のような状況があるのを知ったうえで、なぜ当時そのようなことができたのか、私はその世代の方々に訊いてみたことがある。すると彼(彼女)の多くがこのようなことを語っていたのが印象に残っている。

それはねぇ、私はこのひとと一緒になるのが運命なんだと思ったからですよ。神様が与えてくださった出逢いだってね。そりゃあこのひとにも欠点のひとつやふたつあるでしょうけど、それはこちらも同じこと。それなら私はこのひとをお相手として、生涯添い遂げようと思ったんですよ

翻って現代の私たちは、ひとつひとつの出逢いにどれほど「運命」を感じているだろうか?いわゆる「運命のひと」がどこかにいるというくらいの淡い期待なら、持っているひとも多いかもしれない。だが問題なのは、果たして「目の前にいるこのひと」がそうなのかどうかということである。そしてその「確証」は、誰も与えてはくれない。そもそも「結婚」というかたちをとるかは別にしても、あるひとを「人生の伴侶」として長くともにいるということは、大きな「決断」が必要である。それは、

私は決して世界中のひとたちをひとりひとり見て回ったわけではないけれど、少なくとも自分にとってはこのひとが「運命のひと」なんだ

という「決断」である。「確証」はいつまでも得られない。だからこそそこで必要なのはある種の「信念」だとも言える。

しかし、現代ではその「決断」を下すのがますます難しくなっている。そして実はここでも資本主義経済が大きく影響している。なぜなら、今までも何度も書いてきたように、資本主義とは「個人」(人間)を「人材」に変質させるものだからだ。そこではかけがえのない「特性」を持った「個人」が必要とされているのではない。

「いつでも代えが利き、それぞれ全員が他のひとと同じような結果を出せる」

ことが重要なのだ。

だからもしあるひとが飛び抜けた特質を持っているなら、まずはそれを「マニュアル化」することが求められる。それはその「特質」を「量産化」し、「代えが利く」ものに変えようとする試みに他ならない。もちろん、どうしてもそれができないものもあるだろう。それは「特別なもの」とされ賞賛されるかもしれない。あるいは「奇特なもの」として排除される可能性もある。だがどちらにしても「特別なもの」は少しあればいい。「その他大勢」はあくまで「均質で、従順で、壊れても代えが利く」存在であることが望ましい。だから、そこではひとも「歯車」であり、「素材」のひとつとして捉えられる。「人材」とはそういうものなのである。

そしてもちろん、このような価値観は私たちのなかにあまりにも深く染み込まされているので、「恋愛」においても同じことが言えるようになる。かつて「結婚」とは、<神>やすべての「縁者」を立会人とした「生涯の誓約」であった。だからこそ、「離婚」は「罪」とすら見なされた。だが、現代の、特に日本も含むいわゆる「先進国」においての「結婚」とは、単にふたりが交わす「契約」にすぎない。だからこそ、お互いの合意がなくなったのなら「破棄」してもいい。もちろん、今でもそれはそんなに気軽なものではないかもしれない。だがひと昔前よりは確実に敷居が低くなっている。少なくとも、それはもはや「罪」ではない。それにそれすら面倒なら、「結婚」というかたちではなく、「恋人」というかたちを取っていればいいのだ。それなら「破棄」するときのお互いの負担は、さらに軽くなるだろう。

さらに言えば、ここまで来れば「恋愛」とはお互いの「時間」と「カネ」を賭けた「投資」であり、「買い物」だとすら言える。ここは「恋愛市場」なのだ。まるで「価格比較サイト」で下調べをしてからモノを買うのと同じように、私たちはお互いの「スペック」を見せ合い、「査定」し、「比較」したうえで相手を選ぶ。そして、もし「割に合わない」と感じたら別れ、また新しいひとを探せばいい。なにせ、「代わりはいくらでもいる」のだから。

このようななかでは、私たちが出逢いに「運命」を感じられなくなるのも無理がないとも思える。それに、少しは気が合うかもしれないと思えたひとも、だんだんと欠点が見えてくれば「もっといいひとがいるはずだ」と思うから別れたくなる。そしてこれは相手だけでなく自分にも言えることなのだから、ひとびとは自信も失っていくことになる。実際私自身も最近、

20代後半の私なんてもうおばさんですよ

という会話を耳にして驚いたのだが、このような価値観はそれほど少数派というわけでもないという話を聴いてさらに驚いた。「代えがいくらでもいる」自分と相手が、お互いに自信を失くしたまま、お互いを品定めしているのである。私なら、さしずめ

「電波系要注意人物のひとり」

とでもレッテルを貼られてしまうかもしれない。

しかし、よく落ち着いて考えてみれば、やはり私たちはそれぞれがかけがえのない存在なのだ。そして、同じ時代に同じ星に生まれても1度も出逢うことなく互いの人生を終えるひとのほうがたくさんいるなかで、どんなかたちであれなんらかの関係を持ったということは、そこには「縁」があったということなのである。

私はなにも「結婚」というかたちにこだわることを勧めたいわけではない。いろいろな見かたはあるだろうが、言ってしまえば「結婚」もひとつの戸籍制度にすぎない。そして、歴史を振り返ってもわかるとおり、戸籍制度を整備するのは、「労働力」の所在を明らかにし、「徴税」を確実に行ったり、集団への「帰属意識」を高めさせて「団結力」を育むための為政者側の都合によるところもとても大きいのである。だから、私たちがそんなものに過度に囚われる必要はまったくない。

それに、私は無理にこどもを産み育てることを勧めるつもりもない。それは人生観にもよるものだし、そもそもこどもを産むことが肉体的な事情でできないひともいるが、それが本人を葛藤させ、場合によっては自身の人生の選択肢が狭まったように感じさせてしまうことが事実だとしても、だからといってそれでそのひとの本質的な価値が貶められたというのは誤りである。むしろ、世界的に見れば私たち人類はこの数十年で爆発的に増えすぎた人口によって苦しんでいるのだから、人口が減少することが必ずしも悪いことだとは言えない。それに、人口が多い国ほどより繁栄するというのなら、そのうち中国やインドが世界の覇権を握ることになるだろうが、実際にはそう単純な話では決してない。なぜなら、そこに資本主義があるかぎり、行き着く先は

「少数の富裕層と絶対的大多数の貧困層」

に分かれた社会でしかないからだ。ならばむしろ、多すぎる人口は将来的な不満の爆発による「革命の予備軍」だとも言える。もちろんこんなことは、為政者が誰よりも切実に理解していることだろう。

だから結局私の言いたいことは単純なことで、

出逢うことができた他者と、そして自分自身を大切にしてください

ということなのだ。もちろん、出逢いがあれば別れもある。つらい体験をすることもあるだろうし、お互いにとって苦しみになるような関係をいつまでも続ける必要はない。だが、

袖振り合うも多生の縁

という言葉をもういちど思い出してみてほしい。これは確かな事実なのである。そして私たちは誰も「男性A」ではないし、「女性B」でもない。「労働者C」でも、「社会不適合者D」でもない。あなたはあなたである。これは言ってしまえば当たり前のことなのだが、私たちが病んでいるときというのはそんな当たり前のことを忘れているときなのである。だからそんなときこそ、忘れかけていた一見当たり前のことをもういちど思い出すことが必要なのだ。そしてそれがまさに、今なのである。

コメント

  1. さい より:

    とても共感致します。

    資本主義的な価値観が、男女の人間関係にも浸透してると思います。

    損か得か、そして同性同士の競争意識。

    少しでも高値の相手をゲットしたい。

    損はしたくない。

    こんな意識の中で、恋愛、結婚において傷だらけになってる人が沢山いると思います。

    人間の欲望を追求する、という点において、

    男女関係は資本主義と相性がいいんだと思います。

    だからといって、昔が良かったかどうかは分かりませんが、、、。

    私の地元の田舎では、

    また別の、封建的な息苦しさがありました。

    家や共同体の中で、役に立たない者、不器用な者は「穀潰し」と言われたものです。

    女性が自立するチャンスもありませんでした。

    でも、今より個人的な世界は狭かったはずなので、

    どんな立場でも、運命として受け入れていたのかも知れません。

    新しい発想で、

    どんな自分でも大切にして、どんな他人でも、大切に扱う。

    そんな風になれれば良いな。

    と思います。

    • Dilettante より:

      さいさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      資本主義の強力なところは、この世界のほぼすべてを自らのなかに取り込んでしまえるところにあると思います。食糧や住居、時間や空間、あるいは私たちのいのちに至るまで、ここではありとあらゆることが「値踏み」されて評価されてしまいます。

      しかし、それはあくまでも

      資本主義経済の発展に寄与するか?

      という偏った基準に則ったものでしかありません。もちろん私たちは誰も「穀潰し」などではないのですが、そんな言葉すらそれほどの違和感や罪悪感なく言えてしまうとすれば、それこそが資本主義の負の側面が凝縮されたものだと思います。

      端的に言って、私たちは極端に視野を狭められようとしているわけです。そしておっしゃるとおり、どんな問題も過去に戻れば解決するといったものではありません。ただひとつ間違いないことは、未来は私たちが選ぶ「思想」と「行動」によって創られていくということです。現状を真摯に受け止め、どこまでも喜びに向かっていく決意と覚悟を持てば、未来はきっと、私たちの想像をも超えた素晴らしいものになるでしょう。

  2. さい より:

    Dilettanteさん。

    返信、ありがとうございます。

    資本主義というのは、人間の欲に根ざしているので、

    こんなに広く深く浸透してしまっているのかも知れませんね。

    私の中にも、値踏みする思考はかなりあって、

    なかなか抜けられそうにないのですが、

    今は、与えられた環境で、

    精一杯、働き、生きて、

    自分を充実させる事を大切にしたいと思います。

    • Dilettante より:

      「資本主義社会」と呼ばれてしまうほど、現在の私たちの社会が資本主義に依って成り立っているのであれば、私たちはその構造的問題を認識しつつ、うまく付き合っていくしかないと思います。私だって、商店の安売り情報も気にかけますし。

      ただ、どれだけ強固に見えるものも実際には日々確実に変化していきます。そして、長くても今後数十年の間、おそらくは私たちもまだ生きているうちには、現在のような資本主義社会もまた間違いなく終わりを迎えることになるでしょう。

      もちろんそこに至るまでにはやはり様々な「摩擦」も起きるわけですが、そのなかでいかに喜びを見つけながら生きていくか、これからも一緒に考えていただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

  3. さい より:

    はい。

    よろしくお願いします。