私たちの一生は、最初に自分が出した「答え」を確かめる旅でもある

私はなんのために生きているのだろう?

なんか楽しいことないかなぁ……

私たちはふとこのような想いに駆られるときがある。これは別の言いかたをすれば、

私の人生には生きる価値があるのか?

という問いであるとも言える。そして、あらゆる思想家や宗教家が、この問いにそれぞれの思索を巡らせてきたし、今でもそれは続いている。それほど、この問いは誰にとっても切実なものである。

そんななかで、いつ誰が言っていたのかも思い出せないが、こんな意見を言っていたひとがいたのを今でも憶えている。

世界にはありとあらゆる宗教がありますけど、その多くに共通しているのは、「この世は無価値であるか、あるいは地獄である」ということだと思いますね。この世が無意味・無価値で、つらいことにあふれた地獄のようなところだからこそ、ひとは現世の苦しみに耐え信仰を持つことで「あの世でしあわせ」を得るとされる。キリスト教もイスラームもそう。この世が本当にしあわせな世界だなんて誰も思ってない。それに、現世でのしあわせなんて一時的で不安定なものにすぎない。真のしあわせはあの世の天国にしかなくて、出来の悪い者たちがそこに至るための修行場」あるいは「刑務所」みたいなものがこの世である、というのが多くの宗教の共通認識ではないかと思うんです。「永遠のいのち」や「輪廻転生からの解脱」なんかを求めるのも結局はこの世がどうしようもなく苦しいところだっていう前提があるからでしょう? だから、私たちが苦しいのは当たり前ということなんだろうと思います。私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、これだけ多くの宗教家や「聖者」がそう言っているのだから、きっとこれは真実なんだろうと思うんですけどね。私たちにできるのは、それに不満を言わずに諦めて、せいぜい「あの世のしあわせ」とやらに望みを託すことなんじゃないんですか?まぁ、そんなものがあればの話ですけどね〜

私自身はそんなに深く様々な宗教を研究してきたわけではないが、このような見解は、確かにそれなりの説得力を持っているように思える。そしてもしこれが本当に正しいのだとすると、

私たちの人生にはたいした価値も意味も楽しみもない

ということになる。だが、私はこのような考えかたに説得力があることを認めるとしても、やはりそれに賛同することは決してしないのである。

人生には生きる価値があるのか?

という問いは確かに切実なものだ。私たちは人生を懸けてその問いの答えを探しているとも言えるかもしれない。だが、実はその「答え」は私たちが「生まれる前」に既に出ていたのだ。そしてその答えを出したのは、他の誰でもなく、私たち自身なのである。

私もあなたも、この世界に生まれる前は肉体を持たない「霊存在」として生きていた。ではなぜそこからこの世界に生まれてきたのかと言えば、それは「自分が望んだから」だ。ではなぜそれを望んだのかと考えると、「それが楽しいと思えたから」なのである。霊界ではすべてが「想いのまま」なのだから、そこにはなんの「強制」も「義務」もない。それなのに自分を苦しめ、痛めつけるためにわざわざこの世に生まれてくるようなひとはそういない。「怖いもの見たさ」などと言われるような感情もあるのだからまったくいないとまでは言い切れないとしても、多くのひとはもっと素直に、

それが自分のためになるから、向こうの世界でやりたいことがあるから、いろいろなことを直に「体験」したいから

この世に生まれてくるのである。そこにあるのは「喜び」なのだ。そう思えないひとはそもそも生まれてこなくてもいい。希望者は他にもたくさんいるのだから、自分の気持ちが固まるまでじっくり待っていればいいのである。

そして生まれ変わることを決めた霊存在は、守護霊とも相談し、だいたいの寿命、出逢うひとびと、生まれる環境、そこでやりたいことなどをじっくり考えて決めてから、「満を持して」この世に生まれてくる。もちろん、いくら自分で決めたこととはいえ、そこには葛藤や迷い、不安だってあっただろう。しかしそれ以上に

楽しみだ。ワクワクする

という気持ちだってあったはずだ。そうでなければ、そもそも生まれてきていないのである。

だから

人生には生きる価値があるのか?

という問いには、もう「最初から」答えが出ているのだ。そしてその答えを出したのは、他の誰でもなく、私たち自身なのである。少なくとも生まれる前の私たちは、「私の人生には価値がある」ことを確信していた。「このままここ(霊界)に留まるよりも、向こう(肉体界)で生きてみたい」と強く想い、具体的に行動したから、私たちはこうして生まれてきたのである。だとしたら、私たちはもう「答えを探し求める」必要はない。ただ自分自身が出した「人生は楽しい、大切な価値があるものだ」という「答え」が本当に正しいのかを「確かめる」ための旅、それが人生だとも言えるのである。

とはいえ、得てして「机上の理論」というのは間違いがあるものだ。実際にやってみなければ見えてこない、わからないこともたくさんある。だから、自分で望んで生まれてきたはずなのに、「想像以上」の苦しみに四苦八苦したり、この世を「地獄」や「刑務所」などと考えたり、最悪の場合は「自殺」してすべてを投げ出そうとしてしまったりするひともいる。だが、それは他でもなく、「過去の自分自身の選択」を、自ら否定しようとする行動なのである。

では、「過去の私たち」は間違っていたのだろうか?

まったく余計なことをしてくれたな!現実は甘くないんだよ!

とでも文句を言ってやればいいのだろうか?私だって、そうとでも言いたくなったこともある。だが、今の私はそう思わない。むしろ

なかなか味のある人生を選んでくれたよなぁ?

と笑いかけてやりたいくらいだ。それはきっと、私がより深く「私自身」を知ることができるようになったからだとも思う。

これはあくまでも今の私の「答え」だ。だが同じようにこの世界に生まれてきたのなら、あなたが最初に出した答えもきっとそんなに違うものではないはずなのだ。もしそう思えないのなら、もっとこの世界を、そして自分自身を知ってあげてほしい。自分自身と対立するなんて、そんなのは哀しすぎるではないか?だからすぐに「諦め」ないで、もっとじっくり答えを確かめてほしい。

確かに、この世はときとして苦しい。特に現代のように社会全体が病んでいるときはなおさらだ。だが、だからこそ私たちはお互いを支えることができる。そして、「自分を信じる」とは「過去の自分」も「未来の自分」も含めた「自分自身」を信じることだ。それは

「自分を思い出し、取り戻す」

ことでもある。それができたとき、あなたもきっと、もっと伸び伸びと生きられるようになるだろう。そしてそのときの気持ちは、ずっと忘れていた自分自身が、生まれる前から持っていたものなのである。

コメント

  1. 浮遊人 より:

    はじめまして。
    霊と対話されたご経験から伺いたいことがあります。

    ひとつは、人は死んで霊に戻ったときに直前の人生で「やりたかったこと」を思い出すのでしょうか。それがなされたとか、なされなかったとか。そういった対話をされたことはございますか?なんといいますが、そういった対話の総体から、霊が世界をどのような方向に向けたいのかが分かるのではないかと思います。

    もうひとつは、やはり事故や、特に自分で身を守れない年齢で亡くなる子供達のニュースを見ると、彼らは「やりたかったこと」ができなかったのだろうなと思います。それに、自分の意思というか、決断ではどうしようもないような状況のように思います。

    今生だけでなく、長い目で考えて「学び」と捉えるのだとしても、私の価値観からするとあまりに悲しい(幸せとはかけ離れた)人生であるように思います。あるいは、彼らはそういった人生を周囲に見てもらうことが目的であったのでしょうか(そうだとしても悲しいですが)。彼らのような人生を経験をした霊と対話したことはございますでしょうか。

    現実にこのようなことがあふれていると、この「私」が(いまだ生まれてきた目的は分かりませんが)幸せになれる気がしないといいますか、周りが(拡大すると世界が)幸福になってからでないと、「私」も幸せになれそうな気がしてきません。殿(しんがり)きどりなのでしょうかね。

    • Dilettante より:

      浮遊人さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ひとつは、人は死んで霊に戻ったときに直前の人生で「やりたかったこと」を思い出すのでしょうか。それがなされたとか、なされなかったとか。そういった対話をされたことはございますか?なんといいますが、そういった対話の総体から、霊が世界をどのような方向に向けたいのかが分かるのではないかと思います。

      そうですね、あなたがおっしゃるように、自分がやりたかったことができないままに死んでしまう実例の最たるものが自殺だというのは間違いないと思うのですが、自殺ほどではなくても、大なり小なり後悔というか、反省点のようなものは出てくるものだと言っていいと思います。

      そして、特に今の地球に生まれてくるようなひとというのは、多少なりとも

      世界をよりよい方向に変えたい!少なくとも、破滅的な方向に行くのを防ぎたい!

      というような想いを共通して持って生まれてきたということも言えると思います。

      そのうえで、世界というのは私たちの集合体なわけですから、世界を変えたいなら自分を変えることにもなるわけですが、たとえば

      もっと優しくしてあげればよかった

      疑心暗鬼で耳を塞がずに、もっと素直に話し合えばよかった

      というような想いは持つひとが多いと思います。

      ですからその意味でも、やはり世界を方向づけるのは、実はとても素朴なことからなのだなぁというのは、私も自戒を込めながら、いつも想いを深くしているところです。

      もうひとつは、やはり事故や、特に自分で身を守れない年齢で亡くなる子供達のニュースを見ると、彼らは「やりたかったこと」ができなかったのだろうなと思います。それに、自分の意思というか、決断ではどうしようもないような状況のように思います。

      今生だけでなく、長い目で考えて「学び」と捉えるのだとしても、私の価値観からするとあまりに悲しい(幸せとはかけ離れた)人生であるように思います。あるいは、彼らはそういった人生を周囲に見てもらうことが目的であったのでしょうか(そうだとしても悲しいですが)。彼らのような人生を経験をした霊と対話したことはございますでしょうか。

      あなたも実のところ薄々は感づいているのだと思いますが、

      「やりたいこと」

      というのは必ずしも

      「自分が先頭(最前列)に立ってやりたいこと」

      であるとは限らないので、自分がその生で夭折することが、長い目で見て社会を変える契機になるのでしたら、その役を担うことは、充分に検討に値するものだと思います。

      そのうえで、あなたが

      そうだとしても悲しいです

      自分の意思というか、決断ではどうしようもないような状況のように思います

      と感じる気持ちも無理に抑える必要があるわけではなく、むしろそのような感覚を大切にすることが、

      「悪い意味での、つまり他者に投げつけるかたちでの自己責任論」

      を打破して、社会全体の在りかたを問いなおすことにつながるのだと思います。

      ただ最近でもよく見られるたとえば虐待死などの場合、どこまでが生まれる前に予定されていたのかと考えると、本人は

      「98%くらいの確率」

      で、自分が虐待によって死ぬことを覚悟していたと見ればいいのではないかと思います。

      そしてあとの2%くらいは、その保護者や周囲のひとたちが予想を超えて成長することによって、その死が回避される可能性もあると思っていたという意味なのですが、これは虐待や殺人のような極端な事例に限らず、他の死因(寿命)についても、おおよそ同じように言えると思っていいかと思います。そしてもちろん、それは予定より延びる場合だけではなく、自殺によって縮むこともあるということも言え、それも含めての、

      「2%くらいの余地」

      だと思えばいいのではないかと、私は思っています。

      それともうひとつ補足しておくと、直前世で夭折したひとというのは、一般的に早めに(数年から数十年後には)生まれ変わることが多いということも言えます。ですからやはり、魂の永遠性を前提にすると、いろいろなことの見えかたが、だいぶ変わってくるのではないかと思います。

      現実にこのようなことがあふれていると、この「私」が(いまだ生まれてきた目的は分かりませんが)幸せになれる気がしないといいますか、周りが(拡大すると世界が)幸福になってからでないと、「私」も幸せになれそうな気がしてきません。殿(しんがり)きどりなのでしょうかね。

      このような考えは、たとえば宮沢賢治も

      世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

      と言っていることですし、私から見ても実に自然なものだと思います。

      ですからやはり、私も自分と世界のつながりや共鳴に想いを馳せながら、自分自身をよりよい方向に成長させていけたらと、そう思っています。