私がこの『闇の向こう側』を開設した当初、私が霊媒師であることを知る数少ない友人が、
『闇の向こう側』なんてタイトルじゃ、世間にはまずウケないと思うよ〜
と言ってきた。確かに、率直に言って「光」と「闇」のうち人気が高いのは「光」だろうし、開設当初の2012年のように、「アセンション」とか「次元上昇」とかいうことについて様々なひとたちが好きなことを言っていたときには、特にその傾向が強まっていたのも間違いないだろう。
だが、私は友人の見解がおそらく正しいだろうとは認めながらも、あくまで自分の初心を貫いた。それはなにより、自分自身の感覚をごまかしたくなかったからである。そして、私は今でもたいした影響力を持っているわけではないが、それでもこのような事実は指摘できる。2012年当時「スピリチュアルランキング」などの上位に列挙されていた多くのサイトが移り変わり、閉鎖されたものでさえ少なくないなかで、私の『闇の向こう側』は、今でもずっと、ここにあるということだ。
そしてこの『闇の向こう側』の最初期に、私は
私は、最初から一貫して、自分が「闇」の立場から、ものを書くと表明した。これは、私が「光」を嫌っているというわけではない。単純に言って、闇側に立って発言するひとが、あまりに少ないのである。先に述べたように、
「光=善=浄=真=神」と「闇=邪悪=穢れ=偽=魔」
という構図は、私が常々おかしいと思っているものだ。そしてすぐに、自分が前者の「光グループ」に属していることを表明、確認して、話が終わってしまう。もっと過激な例(と言ってもよく見る例)では
闇に光を当て、光に転換させる
というまるでオセロのようなことを言い出す。
私の意見をはっきり言おう。これは「曇り」「邪」「穢れ」「闇」をすべて混同している。そして相手に「光を当てる」というのが高次元の「善」だというのなら、それは「光」と「善」に対しても、とても失礼なことだ。だから私は、このようにぐちゃぐちゃになってしまったものを、私の視点から少し整理してみたい。そして、あなたが光よりも闇に魅かれていたとして、それはあなたが邪悪だということを意味しないということを伝えたい。黒い石を白くする必要はないのだ。もし無理矢理に白くしたなら、それは文字通り「無理」を通したことになるし、黒い石を「穢した」ことになる。
このように単純なことを、無条件に光を礼賛するひとびとと、せめて同じくらいの数のひとびとが主張してくれていたなら、私はこの場で語ることなどすぐにやめよう。しかし私の見るところ、現状はそうではない。だから、私はあえて闇の側に立って、こうして書いているのである
なぜ、私は闇の側に立つのか私は、最初から一貫して、自分が「闇」の立場から、ものを書くと表明した。これは、私が「光」を嫌っているというわけではない。単純に言って、闇側に立って発言するひとが、あまりに少ないのである。先に述べたように、 「光=善=浄=真=神」と「闇...
と言った。このような私の基本的立場については初期にほとんど言い尽くしてしまったので、最近では重ねて強調することもしていないが、私のこうした態度は、今でもずっとここの根底にあると言える。黒も白も、同じように尊いものだ。闇も光も、同じように大切なものだ。光よりも闇を愛する存在の精神が歪んでいるわけではなく、むしろ
私は光に向かっている善なる存在です
と信じて疑わない態度にこそ病みの兆しがある。私は、今でもときどき自分が霊媒師なのか単純な精神病者なのかと疑うときがあるくらいだ。だがだからこそ、私は真摯に、自分の体験をあなたと「共有」し、「検証」してほしいと願っているのである。
だから、そんな私があなたに言いたいのは、もしあなたが周りとの違和感を無視できないほど追い詰められてしまったなら、そのときこそ自分の「足下」を深く掘り下げていってほしいということだ。
上を向いて歩こう
という態度が大切なこともある。だが本当につらいときには、上を向いてもしあわせそうな他者が映るだけだ。だからそうではなく、むしろあなたの「足下」を掘り下げてほしいのだ。それは、どこまでも深く深く、自分自身と向き合うということだ。その結果、あなたはもしかしたら周りとはまったく相容れない自分を発見するかもしれない。だがだからこそ、かけがえのないあなたがこの世界に必要だったのだ。それに、そんな「ヘンなひと」であるあなたも、少し環境を換えてみれば、多くの「仲間」に出逢えるだろう。私たちは確かに多くの点で異なる存在だ。しかし、たった独りで孤独に耐えなくてもいい程度には、意外と似通っているものだ。だから、諦めずに「仲間」を探してみてほしい。そうすれば、いずれ必ず、見つかるものだから。
私たちはともすると<天国>を文字どおり「天にだけ」あるものと考えてしまう。しかし、病みが深まりに深まって、限りなく「魂の墓場」と言えるような場所のすぐ近く、いわゆる私たちのイメージする<地獄>のような場所の最深部には、<天国>にも引けをとらないほど美しいエネルギーに満ちあふれた場所がある。それは、自分の「病み」を究極まで突き詰めた結果、逆に「コペルニクス的転回」が起きたとでも言えるようなものである。そしてこれは私が実際に見てきた世界(想念界)なのだ。
だから私はあなたにも、どこまでも「あなた」であることを究めていってほしいのだ。もしあなたが黒でも白でもなく「灰色」であったなら?あなたは黒か白になることを自らに強制するのではなく、ただ「美しい灰色」(凛とした灰色・味わい深い灰色)になればいいのだ。それこそが、
「自分を磨く」
ということの意味するところなのである。
私もこの『闇の向こう側』を、
『光に向かってわくわくアセンション』
とかにしなくて本当によかったと思っている。もしそんなものにしていたら、私は1週間も続けられなかっただろう。私たちは自分を活かすために生まれてきたのだ。だから、自分自身を知り、認め、自分自身の感性を発揮して生きていくことがなにより大切なのである。それは確かに簡単ではない。だがだからこそ、あなたにも「仲間」がいる。そして、私にもあなたが必要なのだ。そういったことをひとつひとつ、決して忘れずにいてほしい。そうすれば、あなたにも「元気」が湧いてくるはずだ。だが、その元気とは、文字どおり「元から」、あなたが持っていたものなのである。

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いつも記事を読まさせて頂いてます。
という文にとても興味を惹かれました。
無明に真理の光を当てる。という表現もあるので、
私は、闇=邪=悪=穢れ、と混同してしまいそうになります。
必要だとしても、必要悪なのかな?とか。
たぶん自分の立場からすると、
闇は、その不気味さから、理解しきれなくて
悪のように感じてしまっているのかも知れません。
他には「病み」とか「生命力を失う」「破壊のエネルギー」「混沌」「重苦しい」
という闇のイメージもあります。
けど、陰陽、という言葉があるように、
必要だからあるのであって、
のかも知れませんね。
ちなみに私は、グレーだと自認しております。
さいさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
おっしゃるとおり「闇=邪=悪=穢れ」と混同し、さらにはそれが正しいと信じて疑わなくなってしまっているひとが数多くいるのも現状だとは思うのですが、もしそうであれば闇(宇宙)を基盤としているこの世界は根本的に病んでいることになってしまうとは思いませんか?
ですが実際はむしろ逆で、どこまで行っても理解しきれない闇が生み出す「謎」があるからこそ、この世界は永遠に存在し続けられるのです。だから、その意味で闇は「破壊のエネルギー」ではなく「創造の源泉」だと言えるでしょう。もしすべてが明らかになってしまったなら、ここで私たちがすべきことはもうなにもなくなってしまいます。
私にとって、「闇」とは「光」がそうであるのと同じように、ひとつの「状態」でしかありません。だから、少なくとも光と同じくらいには、尊いものだと思っています。それなのに、今はあまりにも光だけを持ち上げる方々が多いので、闇の名誉のためにも私は闇の側に立って考えていたいと思っているのです。
端的に言って、問題なのは「闇」ではなく、「病み」なのです。それは、それぞれの「色」が「くすみ、穢れ、曇ってしまった状態」つまり「喜びを見失った状態」です。これは「闇」とはまったく関係のないものですし、むしろこの世にどれだけの「病んでいる光」があることか!これは言い換えれば、
「光でないものを光だと思い込まされている」
ということでもあり、
「なんでも光ればいいと思い込まされている」
ということでもあります。しかしあまりにも眩しいものに満ちあふれた世界だからこそ、本当に大切なものが見失われているのです。
とも言われますが、まさに
光を隠すなら「光」のなか
というわけです。
だからこそ、さいさんもご自分の「色」を大切になさってください。私もずっと、闇を見つめていたいと思います。明日は、十五夜です。
Dilettanteさん。
闇=創造の源泉、というのはいいですね。
だとしたら、光ってなんだろう?
と、思ってしまいましたが、、、。
光にしろ闇にしろ、
謎は深まるばかりです。
ともあれ、まずは自分に与えられた「色」を
大切にする事が肝心ですよね。
こちらは今、十五夜の月がとっても美しく見えています。
これも初期に書いたものですが、
という文章をお読みいただければ、私なりの見解はお伝えできることと思います。そしてそこにも書いたとおり、「光」とは存在に「個性」を与えるものだというのが今の私の考えです。まさに
光を当てる
闇に葬る
という言葉が示すように、光が無ければ私たちは自分の「特色」を発揮できません。
ですが、だからといって
「闇に葬られた」存在は決して「消えてなくなってしまった」わけではなく、ただ「見えなくなっている」だけ
なのです。新月のときに月が消滅してしまったわけではないように。だからこれからは、そういった存在が、少しずつ多くのひとの眼前に立ち現れることになるでしょう。それをどう捉え、どう活かし、どう変わっていくのか、その選択はいつも私たちに、委ねられています。