王制のような単独制にも民主制のような合議制にも長所と短所があるからこそ、その「弱い部分」を認識することが変化の第一歩になる

日々私たちひとりひとりにとってとても重要な問題であり続けているのが、

たくさんある選択肢のなかから、どうやってただひとつを選びとるか?

というものだ。この「選択」という主題はここでも何度も考えを巡らせてきたのだが、その「正解」はまだ掴めないままだ。それに率直に言えば、万能の答えにたどり着くことは誰にもできないのではないかとも思う。なぜなら、結局のところ

「ある選択がどういう結果を生むかは、やってみなければわからないから」

である。そして、短期的には「失敗」だと思えたことが、長期的に見れば「意外な成功」に結びついた、などということもいくらでもある。だが、それでも生きている以上はなにかを選ばなければいけないのだから、私たちはなんとかより善い結果を生むような選択をしようと試行錯誤を続けている。

そんななかでたとえば現在の日本では「議会制民主主義」を採用しているのだが、もちろん世界ではこれとは違う方法でなにかを決断する社会もたくさんあるし、そのひとつの例として「王制」を挙げることもできる。ただ現代で「先進国」と呼ばれるような国ならほとんどが「合議制」を採用しているし、そうすべきだと思われているのもあって、王制のような「単独制」はしばしばその短所を念頭に置いたうえで「独裁制」などと批判されることも多いだろう。

ではそもそもなぜ独裁制が問題を生むのかと言えば、端的に言って、「独裁制」が「独善的」になりやすいからだと言える。つまり、絶対的、あるいは限りなく絶対的に近い権力を単独で握ると、そのひとが自分や自分の周辺にいるひとたちの利益だけを考え、その他のひとびとの犠牲や痛み、苦しみを無視した行動を採ってしまう可能性があるということだ。それに、これは必ずしも為政者に悪意があるとは言えない場合にも起こり得るということも考える必要があるだろう。なぜなら、強大な権力を持つ存在はその社会において、少なくとも表面的には「恵まれた」、「満たされた」状態に置かれることがほとんどなのだから、どうしても他者の「痛み」や「苦しみ」を想像しにくい、あるいはそもそもそれに気付くこともないというようなことになっても不思議ではないからだ。飢えた他者に対して

パンがないならケーキを食べればいいじゃない!

餓死する前に肉粥を食べればよかったではないか?

などと言うような為政者を持つ民衆も間違いなく苦しいだろうが、実際にはそんな為政者自身もとても哀れな存在であるし、明らかに王(指導者)としての資質に欠けている。

もし、私が世界の王であれば、もっといい世界(社会)にするのに…… 程度の差こそあれ、誰もが1度はこんなことを考えたことがあるはずだ。「...

だから、そのような社会のいくつかで「革命」が起き、結果として「王制」(単独制)から「民主制」(合議制)へと移行したのだが、これは「他者の痛みがわからない(少数の)恵まれたひとびと」に集団の最終決断を委ねるのではなく、「ひとりひとりの声」を集め、それを練り合わせて判断することによって、苦しんでいるひとたちの声を聞き届けたうえで、ひとりでは気付けない「文殊の知恵」を生み出し、必ずしも全員の願いをすべて叶えることはできないとしても、せめて「最大多数の最大幸福」につながるような選択をしようとしたものであったと言えるだろう。

しかし、今や私たちはこれもまた完全なものとはほど遠いことに気付いてしまっている。具体的に現代日本を例に考えてみても、なぜ民主主義の理想が実現していないかにはいくつかの要因を挙げることができると思う。

まずひとつは、現在の民主主義(のほとんど)が「間接民主主義」になっていることだ。これはもちろん日本も含め多くの社会集団があまりにも大きくなっているために、ひとりひとりから直接自身の想いや意見を聴き取ることが難しく、いくつかの区分けごとに「代表者」(議員)を選出し、その代表者の意見を練り合わせることによって代用するしかなくなっているということである。そしてここで現代における「資本主義」の強力さを考えると、当然のように「代表者」になるのにも結局はカネがかかるし、カネが潤沢にあるほうが選挙戦においても優位なのは誰にも否定できない。そもそも、カネがなければ選挙に出ることすらできないのだ。

そしてもちろん、代表者となったひとは相応の「権力」と、少なくとも平均的な生活よりは「裕福な生活」が手に入る。だから、この時点でそのひとはベッドのうえで閉ざされた生活を送らされているひとたちの存在から離れ始めている。これが「代表者」であることの難しさなのだが、これができないなら、そこで起きているのはただ単に

「『他者の痛みがわからない王』が退いたところに、『他者の痛みがわからないまま『代表者』になったひとたち』が入ってきた』

にすぎず、ある意味では状況はむしろ悪化しているとさえ言える。

それでも、その代表者を選ぶ立場にある市井のひとびとが他者の痛みに気付き、そこに寄り添いながら助け合うことができているならまだいい。しかし私たちは資本主義社会のなかで、ともすると常に「生存競争」を煽られているのだから、だんだんと余裕を失くし、他者のことを考えるどころか自分自身のことをいたわり大切にすることすら難しくなっている。だから、日々に忙殺されている私たちは、

この状況を打開するためには、個人がバラバラに努力するだけでは力不足なのではないか?だとすれば、この社会を、そして未来をどのように変えていけばいいのか?

という問いに向き合うことができない。そして、最後には苦しむ他者に向かってこう言ってしまう。

苦しいのは私だって同じですよ。でも私だって必死なんですよ。あなただって苦しいならもっと努力すべきなんです。今のあなたの状況は、「自己責任」なんですよ

社会がうまく回っているのなら、苦しみはいずれ「連帯」を生み、それが社会を変える力を持つようになる。

私たちはそれぞれ望みや思惑に基づいて行動している。しかし、それはときとして他者との調整や妥協の必要を生じさせることがある。たとえば団体の旅行...

しかし、他者に向かって向けられる「自己責任論」は、その「共感の力」を破壊するものだ。だから、このような価値観が支配的である限り、その社会は変わらないのだ。

そしてもうひとつの要因は、民主主義(合議制)が「権力を分散させた」ことが、むしろ「ひとりひとりの持つ力」を小さく感じさせ、

私ひとりではなにも変えられない

と思ってしまうことである。ただでさえ余裕がないのに、勇気を振り絞って一歩踏み出してみても、後に続く協力者が現れないのならただ潰されて終わりになってしまう。そのことを恐れるあまり、誰も最初に行くひとがいなければやはり社会は変わらない。

さらには、社会を固定化させ、自分たちにとって望まない状況を生み出している「元凶」、言い換えれば「わかりやすい敵」はいないということも私たちを諦めに導く原因となっている。現代はもはや、

あの王を倒せば社会が変わる

という時代ではない。むしろ言ってしまえば、「権力」が分散されたということは、「責任」もまた分散されたということなのだ。だから、たとえ「指導者」が変わっても、ある国(集団)が滅んでも、それだけで世界が大きく変わることはない。この世界がどんなものであるにせよ、私たちはそれぞれが、その「世界の片棒を担いでいる」のである。

だから結局は、私たちにとって

「自分自身と向き合い、他者に寄り添う」

ということがなにより難しいということを認めることから始めるしかないということになる。それができなければ、「単独制」は「傍若無人な独裁制」に堕落し、「合議制」は「衆愚制」に堕落することになる。逆に言えば、「単独制」も「合議制」も、それ自体はどちらがより優れているというものではないのだ。すべて最終的には、私たち自身の「意識と覚悟」が問われることになるからだ。そしてそれが難しいということこそが、今の私たちの心のうちにある「弱い部分」なのである。

だが、先に書いたように「弱さ」とは本来「連帯」を生み出す種ともなる力を持っているのだ。あなたも弱いかもしれないが、それを言うなら私だって弱い。だがこの世界がこのようになっている最大の原因が「社会制度」でも「為政者」でもなく、「私たち自身」にあることを認めることができれば、そこから確実に世界は変わっていく。なぜなら、「自分の弱さを認める」ことこそが、最大の「強さ」であり、王に求められる、なによりの資質だからである。