私たちは同じ<世界>を生きているようでいて、その多くのことについてまだほとんど「合意」できていない

「世界」という言葉はわりとよく耳にする日常的なものではあるが、その意味するところは実のところとても広い。たとえばあるときは「世界」とは「世間」や「社会」を意味することもある。この場合

「<世界>はひとつ」

というのは通用しない。ここでいう<世界>というのは「地球」のことだと考えても差し支えないだろうが、「地球はひとつ」ではあっても「社会」がひとつでないのは明らかである。そして、「世間」というのは

「身の回りの、(あるいは自分が属している)集団」

というものにすぎないのだから、そんな「世間の常識」などというのは少し時代や場所が変わっただけでもいくらでも違ったものになり得る。というより、私たちはこの「同じ」時代の「地球」というひとつの<世界>のなかに多くの「世界」が存在しているかを知っている。だから、まさしく世界は広い。

もちろんこのことは芳醇な「多様性」を生み出すという意味ではとても好ましいことだということもできる。しかし、そこに資本主義という「競争原理」と、「限られた資源の奪い合い」という殺伐とした事態が生まれると、話は一変する。そこに「尊重」と、「共感」そして「共存」という理念がないのなら、そこではいずれ互いの「世界」を護るための争いが生まれることになる。それが、今の私たちが日々目の当たりにしているそのものである。

ただ、自分たちとは違う「世界」や「常識」のなかで生きているひとたちと出遭ったとき、お互いを尊重し理解しようとするにせよ、あるいは排撃しようとするにせよ、そのそれぞれの「世界観」を構成する大きな要素のひとつは、

<神>あるいは「自然環境」(生態系)と自分たち人間との関係をどう捉えるか?

だということはできるだろう。

たとえば現代の日本人はいわゆる「宗教」に対する強いこだわりを持っていないひとのほうが多いかもしれない。これは、「無関心」というよりはむしろ「無頓着」と言えるようなものでもある。だから、初詣もハロウィーンもクリスマスも、そのすべてを「好い加減」に受け入れて、場合によっては自分なりに変化、発展させてきた。だが、これは平均的な日本人が「無宗教」であることを意味するわけではない。なぜなら私たちは、実際に「科学」という<神>をほとんど熱狂的に「信仰」しているからである。

現代の日本人のほとんどが多少なりとも影響を受けている「現代科学」においては、「死後の世界」というのは存在しないというのが多数派の考えかたである。そして、地球や宇宙といった「自然」、それに他種族というのは結局は「資源」であり、慈しむべき「神」ではない。だからこそ、たとえば「土地」はそれをカネで買った「地権者」のものだとされる。また、「自己のいのち」もまた究極的には「自分のもの」であるから、「自殺」をするという選択肢も出てくるし、「尊厳死」という選択肢も、まだ積極的に推奨はされないにせよ、本人の強い希望があれば容認され得るものとして捉えられることになる。もちろん、「霊存在」などというものはないし、「こども」というのは「授かりもの」ではなく「性行為の結果作られたもの」なのだから、「出生前診断」や「デザイナー・ベイビー」だって推し進められるし、こどものほうも

誰も生んでくれなんて頼んでないから!

などと言いたくもなる。

しかし、私たちが他の集団の「世界観」に触れたとき、少なくとも最初はいくらか「違和感」を覚え、

変わった「宗教」を信じているものだなぁ……

などと思ってしまうのとまったく同じように、冷静に考えれば、私たちの生活様式もまた、「特殊な」考えかたに基づいた、ひとつの「宗教」でしかないのである。

もし世界がもっと「広く」、異なる世界観を持っているひとびと同士が互いにぶつかり合うことも、そもそもお互いの存在を知ることもないまま平和的に共存できるような環境ならそれでもよかったかもしれない。しかし、今の私たちが住む世界はそうは言っていられないほど「小さく」なってしまった。

私たちは普段幾重にも折り重なった「社会」のなかで生きていると言える。それは「家族」だったり「国家」だったり「文化圏」だったりするのだが、それ...

だから私たちはもう、「海の向こうのできごと」に無関心ではいられないし、人類が引き起こした地球規模の問題に対処するためには、異なる世界観を持ったひとたちとも協力していく必要がある。やはり<世界>はひとつしかないのだから。

だが、そのような視点に立ったならなおさら、私たちはこの事実を認めるしかない。すなわち、私たちは同じ<世界>を生きているようでいて、その多くのことについてまだほとんど「合意」できていないということだ。

霊存在は実在するのか、しないのか?死後の世界はあるのか、ないのか?守護霊はいるのか、いないのか? 人生の本質は喜びなのか、苦しみなのか? 生まれ変わりはあるのか、ないのか?この世に生まれてきたのは、いったい誰の意志なのか?現代社会はこのままで持続可能なのか、そうでないのか?カネは多くあればあるほどしあわせになれるものなのか、そうでないのか?

この問題の核心は、実はこのような問いというのは、

「個人の『価値観』以前の問題」

であるということだ。なぜならこのような問いに答えを出すことなしには、私たちは自分の「価値観」を持つことすらできないからである。

たとえば、死後の世界などはなく、死ねばただ無になるだけだというのがもし「事実」なのだとすれば、自分のために他者を利用し、蹴落とし、極端に言えば犯罪を犯したとしても、

どうせ最期には死ぬんだから、死刑になったっていいんだ!

と思っているようなひとには、究極的にはなにを言っても無駄だということになるかもしれない。

また、 カネは多くあればあるほどしあわせになれるものだというのがもし「事実」なのだとすれば、私もこんなことを書いていないで、1円でも多く得られるような生きかたをもっと必死に模索すべきだということになるかもしれない。

あるいは、霊存在などというものは実在しないというのがもし「事実」なのだとしたら、私も早く病院に行ってなんらかの処置をしてもらい、このような「妄想」を書き綴る『闇の向こう側』も閉鎖すべきだということになるかもしれない。

だが、もちろん私はそう思っていないし、率直に言えばこの世のあらゆる争いは、このような「根本的な問い」に対する「合意」がそこにほとんどないから起きるのだ。しかし、たとえそれがどんなに難しいことだとしても、そこになんらかの合意点を見出すことなしには、私たちはもはや未来を切り拓くことができないとすら言ってもいいのではないかと思えるのである。

では、それは本当に可能なのだろうか?それはもちろん最終的には私たちに懸かっている。ただ、まだほとんどのひとは信じられないかもしれないし、別に今はただ

そういう話もあるんだなぁ……

という程度に思っていてくれればいいのだが、私は霊存在と関わりを持つようになった当初から、多くの霊存在に、

いずれは「あらゆる存在」が、霊存在も含めた「他次元の存在」を認識し、交流するようになる。それは今肉体界で起こっている問題を解決するには、「あなたは見えると言うが、私には見えない。だから信じられない」という段階を越えなければいけないということに、肉体界のしあわせを願う多くの霊存在の見解が一致したんだ。もちろん、強硬にそれを阻もうとする存在も多いけどね

と言われ続けてきたのだ。これはつまり、いずれあなたも、その他のすべてのひとも、霊媒師になるということだ。そして確かにそれ以外には、「信じる/信じない」の平行線を乗り越える方法はないのではないかと私も思っている。とはいえ一方で、

そんな世界が本当に実現できるのか?

という懐疑もあるのが実情だ。ただ、近年では明らかに「精神病患者」が増えていると言われている。そして、これまでにも何度も書いてきたように、私だって医学的には「精神病患者」なのである。だとしたら、今病院にいたり、自他ともに「狂っている」と思われているようなひとのなかにも、多くの「霊媒体質」のひとがいるのではないか?だとしたら、そのようなひとと私との違いは、ただそれを「理解する」機会があったかどうかだけなのではないのか?

「統合失調症」という言葉を聞く機会は、以前よりずっと多くなったように思える。一説によると少なくとも100人にひとりくらいの割合で統合失調症患...

だからこそ、私は少しでもそのようなひとたちの力になれないかと思って、これを書いてもいるのである。

人生をどう生きるかを決めるのはそれぞれの自由だ。だが、人生の根本的な理解の在りかたはその選択のしかたも含めて多くのことに多大な影響を与えるものだ。その意味で、私は

生きることは喜びに満ちたことなんだ。楽しいんだよ

と言い切る師に出逢えて本当によかったと思っている。

私の師は最初、なにかがおかしいひとだと思っていた。彼は私がなにを言っても、最後には決まってこう言うのである。 楽しいかい? 私は...

そして私は今も、苦しみ悩みながらそれを自分に言い聴かせている。そしてできるなら、私はあなたにもこのことに「合意」してほしいと、そう願っているのである。