「パワースポット」や「宗教施設」とは、なんらかの共通した意識を持つそれぞれの「霊団」が関与する場所でもある

先日、読者の”naji kiki”さんからこんなコメントをいただいた。公開コメントでもあるので、ここにそのまま引用する。

最近スピリチュアルに精通された方たちのホームページ等を読むのですが、

大変立派なことをかいてるんです・・・・。

でもそのうち疑問が生まれるわけです。彼らの資金源は?と・・・。

そうするとバックには 大きな宗教団体がついているわけです。違和感しかありません。

その点、自適さんや 闇の向こう側さんは すっきりします・・・。

神社に行った、ここがいやしろちだ、パワースポットだ・・。云々・・・・・・・・・・。

わかりますが、他はだめだめなので、行く価値もないと? なんだか違和感です。

闇の向こう側さんは どのように お考えでしょうか。

見える方の視点からの意見、ご教示くださいませ。

先日、ある読者のかたより、 「魂の墓場」とそこに至る過程について、もっと詳しく知りたい という趣旨のメッセージをいただいた。そこ...

これに対して、私は返信コメントとして、

以前私は

最近はひと昔前よりは減っているとは思うが、それでも夏になるといろいろなメディアで「心霊特集」といったようなものを見かける機会が増えると思う。...

とも書いたのですが、実際霊存在というのは「ある特定の場所」にだけ関与するわけではないのですから、そういった意味での「パワースポット」はないというのが私の考えかたです。

ただし、「長年に亘って、多くのひとびとが想い(祈り)を捧げ続けてきた場所」というのは、その「長年の蓄積」が力を持つということは言えます。ですから、あらゆる「宗教施設」というのには、なんらかの「霊団」が関与し続けているということです。ですが、たとえば同じ「神社」に属するからと言って、そのすべてに同じ霊団が関与しているとも限りません。

ですから、ひと言にまとめるとすれば、

「あまり『特定の場所』にこだわることはないですよ」

というのが私の立場なのですが、ここはもう少し掘り下げてみてもいいかと思いますので、この機会に次回改めてまとめてみたいと思います。

と書いたのだが、今回はその予定通り、このコメントを補足するかたちで、naji kikiさんの疑問を共有し、私なりの考えを書いてみたいと思う。

さて、まず上記の私のコメントで触れている

最近はひと昔前よりは減っているとは思うが、それでも夏になるといろいろなメディアで「心霊特集」といったようなものを見かける機会が増えると思う。...

や、それ以外にもたとえば

「神の国発言」というものが問題になったことがある。この発言が前後の文脈から見て本当に問題のあるものなのかどうかはいったん措いておこう。これは...

を併せて読んでもらえれば、私が特定の「パワースポット」にこだわったり、ましてや

他はだめだめなので、行く価値もない

などと考えたりしていないことは、すぐわかっていただけると思う。ただそのうえで、そのすぐあとに、

長年に亘って、多くのひとびとが想い(祈り)を捧げ続けてきた場所」というのは、その「長年の蓄積」が力を持つということは言えます。ですから、あらゆる「宗教施設」というのには、なんらかの「霊団」が関与し続けているということです。

と書いているのは、たとえば「仏教系寺院」には、「生前からずっと(その宗派の)仏教を信仰してきたひとびとの想い」が、同じく「キリスト教会」には、「生前からずっとキリスト教を信仰してきた方々の想い」が、折り重なって蓄積されているということだ。そして、「想いは力」なのだから、その意味で宗教施設などは確かに「パワースポット」だと言うこともできる。単体の「霊存在」と区別して、

「特定の意識や目的を共有する霊存在の集団」

を「霊団」と呼ぶことがあるが、あらゆる宗教施設にはなんらかの「霊団」が関わっているのだから、そこで同じように祈り、同じような言葉(祝詞、真言、聖書の一文……)などを口にしたり、想いを巡らせたりしたら、当然その霊団と「縁を結ぶ」ことになる。そしてこの肉体人のなかで「宗教」が分かれているのと同じように、仏教の宗教施設にいる「霊団」とキリスト教の宗教施設にいる<霊団>は基本的に違うものである。

とはいえここまではそれほど複雑な話ではないと思うのだが、最も注意してほしいのは、

たとえば同じ「神社」に属するからと言って、そのすべてに同じ霊団が関与しているとも限りません。

という部分である。これはどういうことかと言うと、「想いが力」という大原則から考えれば、ある「パワースポット」の「パワー」の性質というのは、「そこに集まる想いの性質」に大きく左右されるということだ。そして、もちろんそれは「霊存在」だけでなく「肉体人」も含んでの話である。だから、同じ「神社」に属しているからと言って、さらに言えば同じ場所、同じ名前の「神社」だからといって、そこにずっと同じ「霊団」が関与しているとは、まったく限らないのである。

それは単純に「想い」の問題なので、神社に限らずその宗教施設の「大きさ」や「格式」や「築年数」、「知名度」や「建てるのに要した資金の量」などは些末なものにすぎない。一般的にはとても「高名な」場所に、「信じられないほど低俗な」霊団がいる場合も少なくない。この場合の「低俗な」というのは

「真に他者の喜びを願うのではなく、単に自分が崇め奉られることを求めているだけの、『支配欲の強い』存在」

ということである。これはつまりいわゆる負の霊団だと言ってもいい。そして、たとえ参拝者がまったく気付いていなかったとしても、そこで掌を合わせれば、そういった存在とも多少の「縁」が結ばれてしまうことになってしまう。だからこそ、安易な「パワースポット」巡りは危険なのである。

これは霊存在のほうに問題があるのと同じくらい、私たち参拝者のほうにも問題があるということでもある。「狭量な現世利益」を求めるだけではなく、「他者の不幸」を願うようなものまで平然と絵馬に記すような事態を見かねて、神田明神が

神社の方針として不適切として思われる絵馬は外させて頂きます

と周知した注意書きが話題になったのは昨年(2014年)のことだったが、これはあらゆる宗教施設にとってもはや無関係ではないだろう。そして、こうした肉体人の「想い」と支配欲の強い霊存在との「想い」が強く「共鳴」し合ったとき、それは容易に創建当時の想いを塗り替え、それとはかけ離れたものにもなってしまうのである。

だからこそ、こうした流れを止め、本来の

「すべてのひとの喜びを願い、集め、高める場所」

としての「パワースポット」を作りたいと思うなら、まずは「自分自身の想い」を喜びに向けることだ。そこには「修練」が必要でもあるが、それを強く望み続ければ、いずれその想いに呼応した多くの存在があなたに力を貸してくれるだろう。そう、あなたにとっていちばん身近な「パワースポット」とは、実は他のどこでもなく、あなた自身だったのである。

コメント

  1. naji kiki より:

    ありがとうございます。

    大変 しっくりと 読ませていただきました。
    いつも思うのですが、闇の向こう側さんの文章からは、
    すっきりとした晴天とともに、十分な精神的成熟度が手に取るようにわかり、
    尊敬しています。

    自分自身がパワースポットに・・。はい。かちりときました。

    いつからか、私、心がおしゃべりをやめたんです。随分前です。
    それはそれは静けさの中です。
     
    その静けさがより私を孤独にさせたと思ったり、
    静かになったから、やっと終わった、なんて勝手に自分のゴール
    を作ったり、未熟でした。
    心がおしゃべりをやめてから、どう生きるか、そのことに重きをおけず、
    幼さからくる行動を その後も続けることに。

    今は少し 前に進めていたら にこっと自分に笑いかけてあげたいです。

    心のおしゃべりをしないまま、社会で人と関わる、家庭で人を育てる、
    これは大変難しいことです。

    ただ、これは輝かしい未来でもあると、そう思うのです。
    だからこれからも続けます。ひっそりと。たんたんと。

    ありがとうございます。

    naji kiki

    • Dilettante より:

      「自分自身」と言っているもののなかに、実は数多くの「他者」が含まれているということを知ると、「にこっと自分に笑いかける」ことや「自分を励ます」ということが、今考えられている以上に大きな意義を持つことに気付くことになると思います。
      なのでそういった意味では、たとえば「先祖供養」といったものをするために、なんらかの宗教施設に行って掌を合わせることすら、必要ないと言えます。
      なぜなら自分自身が「自己を大切にし、喜びとともに生きている」ことが、なによりの「供養」であるからです。そうした「生き様」や「想い」は、直接の「先祖」に限らず、すべての縁ある存在にいつも届いています。

      ですからもし私の文章を読んで「すっきりとした晴天」を感じてくださるというのなら、それはとてもありがたいことです。実際の私は日々暗中模索、悪戦苦闘を続けている存在にすぎず、いつでも晴れ晴れとした心境を保てるにはほど遠いのですが、naji kikiさんが私から受ける印象は、naji kikiさんご自身のエネルギーと「共鳴」した結果生まれているものだと思います。
      naji kikiさんが私に元気づけられているのだとしたら、それと同じくらい私もnaji kikiさんに元気づけられているのです。
      こちらこそ本当に、ありがとうございます。