自分自身の死後と来世のしあわせを願うなら、カネよりも「穏やかな環境」を遺すように努めたほうがいい

カネはあの世には持っていけない

という言い回しはよく耳にするが、その一方で私たちは死者にも「冥銭」を持たせたり、

地獄の沙汰もカネ次第

などと言ってみたりする。それに、葬儀の際には遺族が支払う料金に応じて様々な違いが生まれてくるし、たとえば「戒名」などもより「高位」の戒名を付けてもらうのにはより多くの料金がかかるような仕組みになっている。まさに、現代において資本主義の力の及ばないところはどこにもないかのように思われる。

だが、私がはっきり言っておきたいのは、いかに立派な墓を建てようが、棺を高級なものにしようが、どれだけの数の僧侶や神職を葬儀に呼ぼうが、どんなに耳触りのいい戒名を付けてあげようが、そんなことは死者の霊界でのしあわせにはまったく関係がないということだ。ただし世間でも時折言われるように、そういった葬儀などが持つ意味はむしろ「死者のため」というよりは「遺族のため」であるとは言えるだろう。

自分はあのひとのしあわせを願ってできる限りのことをしてあげられた

という満足感や、

「その死に一応の『区切り』をつけることでそのあとの自分たちの未来へと歩み出す気持ちを再び育んでいく」

ということにおいては、葬儀は確かに大きな意義があるとも言える。しかし、潤沢な資金がないために立派な葬儀をしてあげられることができなかったり、見栄えのいい墓を立ててあげることができなかったりしたとしても、そんなことをまったく気に病む必要はないのだということを知ることも、とても大切なことだと思う。それに、少なくとも今までのところ、私は誰かが戒名を名乗ったり、戒名で呼ばれたりしているのを耳にしたこともない。

逆に死者の立場から言えば、自分の子孫や親族にどれだけのカネを遺したとしても、そして彼らがどれだけ「立派な葬儀」をしてくれたとしても、そのこと自体は本人になんの影響ももたらさない。大切なことはそこに「どれだけの気持ちが込められているか」ということに尽きるからだ。そして、さらに実際的な話をすれば、私たちはすべて今生を終えた後もまたいずれ生まれ変わることになる。そして、たとえばあなたが今生で、「田中家」に100億円の遺産を遺したとしても、生まれ変わりに「血統」は関係ないのだから、あなたが来世でまた同じ「田中家」に生まれ変わるわけではない。だから、そんなことは来世のあなたのしあわせにはまったく関係のないことだ。

むしろ、もしあなたが今生で自分の子孫に多額の遺産を遺したことで、仮にその子孫が傲慢で、他者を見下すようなひとになってしまった場合、そのことによって直接的であれ間接的であれ、来世のあなた自身が苦しめられてしまうようなことすらあり得るのだ。こういった霊界や生まれ変わりの仕組みを知ることは、生きかたを考えるうえでの重要な示唆を与えてくれるのではないかと思う。

世のなかにはいろんなひとたちがいて、来世ではまたどんな存在(立場)にでも生まれ変わる可能性があるということを前提に考えるなら、私たちが次世代の存在のために、そしてまたいずれ生まれ変わってくる自分自身のためにできることは、「優しさ」を教えてあげることなのではないかと思う。助け合う心、いたわりの心、そういった想いを大切にするひとびとが増えれば増えるほど、来世のあなたも生きていやすくなるだろう。もちろん、「優しさを学ぶ」ということは誰にとっても簡単なことではない。だが、だからこそ生きている意味もあるのだし、私自身これからも自分なりに考え、表現していきたいと思う。

あなたは優しすぎる。もっと厳しさも身につけなきゃ。バランスが大切なんだから あなたはこんなふうに言われたことがあるだろうか? 私はかつ...

そしてもうひとつ、誰にとっても大切なのは、自分が生きている「自然環境」、たとえば今生の私たちで言えば地球をこれ以上荒廃させないこと、そして、どうすればひとりひとりがもっと喜びを持って生きられるのか、そういった「社会体制」を真摯に考え、実現させていくことである。極端に言えば、もし私たちが生まれ変わりたいと思ったときに地球が生存不可能なほどに破壊されてしまっていたら、もう私たちは地球に生まれ変わることができないということになる。あるいは、もしこの地球が相変わらず、さらに言えば今以上の差別や抑圧、他者への無関心などに覆われていたなら、私たちはまたそういった環境のなかに身を置いて生きていかなければいかないことになる。もちろん、そういった環境だからこそ学べるものもあるだろうし、だからこそ私たちもこうして今の時代に生まれ変わってきているのだが、だからといって

おかしい

とわかっていることをいつまでも続ける必要はない。そうでなければ、肉体人だけでなく、霊存在にも根強くある

生きることは本質的に苦である

という価値観から、私たちはいつまでも抜け切れないことになる。それは、とても哀しいことだ。

だから私は、今を生きるひとりとして、次世代に「少しでも穏やかな環境」を遺してあげられるようでありたいと思う。それは私だけの力ではほとんど不可能かもしれないが、もし多くのひとたちの力が合わされば、決して実現不可能な目標ではないと思う。そして、そうした

「穏やかな環境のなかでひとりでも多くのひとが笑顔で暮らしているのを見ること」

は、肉体を離れ霊存在となった自分たちにとっても最大のしあわせのひとつになるのは間違いない。それにそれは「他の誰かのため」になるだけでなく、「来世の自分のため」にもなるのだ。であればもう、やらない理由はほとんどない。あとは、私たちの「決意」に、すべてが懸かっているのである。