セオドア・バンカーク。彼の核兵器に対する想いに触れながら、「嘘」の力について考えさせられた日

私は先日、初めてセオドア・バンカークというひとの存在を知った。彼はあの1945年8月6日、広島に原子爆弾を投下した通称「エノラ・ゲイ」号の乗組員12人のうち、最も長くこの世で生き、2014年7月28日に93歳で亡くなったひとである。

それまで彼の存在についてほとんどなにも知らなかった私は、たまたまネット記事を見つけたことで彼に触れることになったのだが、そこにはAP通信による2005年の彼へのインタビューに答えた言葉を要約したものとして、次のような発言が記されている。孫引きになるがまずはこれを紹介してみたい。

長い目で見れば、原子爆弾の使用が、多くの生命を救ったと素直に信じている。原爆投下によって救われた命のほとんどは日本人だったはずだ。だが、あの戦争は、何も解決しなかった。核兵器は何も解決しなかった。個人的には、核爆弾なんてこの世になければ良かったと思っている。すべての核爆弾がこの世界から消えてしまえばいいのだ。でも、もしも、誰かが核爆弾を持つのであれば、わたしはその敵よりも、ひとつだけ多く核爆弾を持ちたいと思う。

Copyright_Condition-All_images_are_Public_Domain今から69年前の今日1945年8月6日。B-29が広島に原爆を投下し、14万人が死亡。続く8月9日、長崎にも原爆が投下され8万人が死亡。この2日だけで少なくとも22万人の日本人が原爆によってこの世を去りました。 当時のアメリ...

この発言はそれほど長いものではないが、とても重要な示唆を含んでいるように見える。私たちは、今や被爆国である日本でだけでなく、それを投下した当事国であるアメリカでも、当時の原爆投下が本当に必要なものであったのか、その意義について疑問を投げかける声があることを知っている。しかし一方では、その使用が2度に及んだことも含め、それは戦争をより早期に、より多くの戦死者が出る前に終わらせるためには、少なくとも「やむを得ない決断」であったと考えるひとびともいる。だからこそ上記のような発言ができるのだろうし、そうでなければとてもこのような任務には耐えられなかっただろうと思う。それに、それが国家の決定である以上、彼の行いは彼がやらなかったとしても他の誰かがやっていたことなのである。

そういったことを考えれば、私は原子爆弾を投下することを決定したアメリカという「国家の判断」や、今もなお世界に数多く存在する核兵器の存在には決して賛同する気になれないのだが、かといって「個人」としてのアメリカ人やこのセオドア・バンカークというひとをことさらに憎む気にもなれない。かといって彼や他の原爆投下作戦従事者を格別に「英雄視」するひとたちの存在には違和感を覚えるのだが、やはり私は個人的にはこのように考えている。「戦争」というのは「集団の狂気」であり、特定の個人にのみ責任や憎悪を向けることで解決が図れるようなものではない。そして、最も大切なことは、

「いかにそれを繰り返さないか」

ということに尽きる。ただ言うまでもなくそういった戦争とは、今も「現在進行形」で起きていることである。

そのような視点から、もういちど冒頭の発言に戻ってみる。彼は、

長い目で見れば、原子爆弾の使用が、多くの生命を救ったと素直に信じている。

と言う一方で、

核兵器は何も解決しなかった。個人的には、核爆弾なんてこの世になければ良かったと思っている。すべての核爆弾がこの世界から消えてしまえばいいのだ。

とも語っている。しかしそうした複雑な葛藤を含む信条を吐露したうえで、

でも、もしも、誰かが核爆弾を持つのであれば、わたしはその敵よりも、ひとつだけ多く核爆弾を持ちたいと思う。

とも言っているのだ。その前の発言を踏まえたあとだからこそ、なおさらこの言葉は重く私の胸に響いてくる。そして、このような想いはあの大戦の終結から70年以上経った今でもこの世界に存在し続け、社会に影響している。その根底にあるのは、他者、そして自分自身への「懐疑」と「恐怖」である。そして自分を真摯に見つめるなら、私は私自身のなかにも多少なりともそれがあることを認めざるを得ない。だから、未だに核兵器は無くならない。

こんなことを考えていると、私は突然自分でも想いもよらない思考の飛躍を迎えた。それはきっと誰か霊存在の影響もあったのだろうが、そのとき私に「飛び込んできた」ものとは、

嘘は、言葉の核兵器である

という言葉と、

嘘なんてこの世になければ良かったと思っている。すべての嘘がこの世界から消えてしまえばいいのだ。でも、もしも、誰かが嘘をつくのであれば、わたしはそのひとよりも、ひとつだけ多く嘘をつきたいと思う

という言葉である。そして私は、明らかに「自分のものではない」その強力な思考(想い)に一時戸惑いながらも、その言葉に、確かに納得したのである。

私たちはいったいいつ「嘘」を発明したのだろう?それはわからない。だが、

嘘も方便

という言葉に多少の力があることを認めたとしても、やはり嘘がもたらした数々の弊害を無視することは決してできない。そして、たとえときには「真実」を言うことが他者を傷つけることになるのだとしても、

「言わないでおいて隠す」

というのと、

「嘘で塗り変えて隠す(ごまかす、置き換える)」

というのがまったく違うものであることは確かである。それに、そういった嘘は、あまりにも多く蔓延し、私たちを

「疑心暗鬼の再生産」

に陥れている。嘘とは、疑心暗鬼の「原因」であり、また「結果」でもある。その力は、まさに

「言葉の核兵器」

と言うにふさわしいと思える。

ただ、私なりに嘘がどこから来たのかを考えてみれば、それは「仮定」、より厳密に言えば「反実仮想」から始まっていると言えるのではないかと思う。これはつまり、

「『今、ここ』とは違う世界を想い描く能力」

だとも言える。そして、その力があったからこそ、私たちは今がどんなに苦しくても、「素晴らしい未来」を想い描くことができる。そのとき、私たちの思考は「時空」に縛られていない。そして私たちは、

「未来は変わり得るものである」

ということを知ることができる。

「今がこうだからといって、未来がこのままだとは限らない」

という知恵は、すべての希望の源である。

だが一方で私たちの

「『今、ここ』とは違う世界を想い描く能力」

そのものが、まさに嘘を生み出す源でもあるのだ。そして、私たちはあまりにも嘘に慣れ親しみすぎてしまった。だから、私たちは「息を吐くように嘘をつく」ことだってできる。もちろんこどもも、霊存在だって嘘をつく。そうやって、私たちはまた一歩、真実から遠ざかっていく。

さらには、嘘は「自分自身にも」向けられる。自分が本当はなにがしたいのか?自分はなにが好きなのか?そんなことにもいくらだって嘘はつける。そして最も哀しいことは、そうしているうちに、自分自身すら、「嘘を真実だと思い込む」ようになってしまうことなのだ。

そうした積み重ねが、ほとんど究極にまで達した結果が、今の私たちの住む世界である。私は、原子爆弾などの核兵器には心の底から反対しているが、直接核兵器を解体できるわけではないし、核保有国と交渉できるわけでもない。そもそも、日本国内の「原子力発電所」の存在すら、解決できないでいる存在だ。だが、言うまでもなく私も、嘘をついたことがある。そしてそれは確かに、「言葉の核兵器」なのである。そう考えると、私は決して積極的に嘘をつきたいとは思っていないが、これから先死ぬまでいちども嘘をつかないでいられるかと言われれば、正直まだまったく自信はない。だが、せめてそれをできるだけ少なくしていこうという意志を持つことはできるし、そうしたいと思う。それは、世界に信頼を取り戻すためだ。自分自身をもっと好きになるためだ。あなたに疑心暗鬼でなく、笑顔を向けられるようになるためだ。そして、私たちがもうずっと見失ったままの「真実」を見つけ出すためだ。そして私たちが真剣にそれを願うなら、それはいずれ必ず実現する。同じ力を用いて「希望」を生み出すか「嘘」を生み出すかは、すべて私たちひとりひとりの、選択次第なのだから。